写真の受けとめかた

oxyfunk2004-11-20

 「写真が国際語であるといわれながら、かならずしも国際語として通用しないのは、写真を読む側に共通の経験がないためなのです」といったのは名取洋之助だった(『写真の読み方』岩波新書、1963年)。写真が文字では表現しきれないコトを映し出してしまう可能性と困難さを踏まえれば、写真は文字的なテクスト的理解には回収出来ない理解の契機を提供すると同時にどこまでも恣意的なテクスト的解釈を滑り込ませる隙間を同時孕んでいるのであって、「写真は文字にくらべるとあいまいな記号」なのである。その「読者それぞれの経験と興味によって、どうにでも読みとれそうな」写真の曖昧さを調整するために発明されたのが「写真の説明文」で、それが「写真を読む方向」を教えるのだと名取はいう。
 視覚的な刺激が強い写真をそのまま受け止めることが困難な時、僕たちは「説明文」をどこかに求めてしまうことがあるかもしれない。視覚的受容にはこうした理解の調整が、とりわけ言語によってなされることが少なくないだろう。視覚的受容を言語的受容に置き換えることではじめて“同意”や“つっこみ”、“ズラし”や“不同意”という一時的な着地点を見つけるというように。それにしても視覚性は、こうした「説明文」的なものを基準にした言語的理解にどこまでも回収されてしまうのだろうか。
 そこで視覚による解釈の調整を図るものとして発明されたのが「組写真」である。それによって写真と写真は並んで配置されることでそれ自体がおしゃべりをはじめ、時間的解釈や空間的解釈の揺れ幅が調整されていく。「○○ができるまで」や「●●が起こるまで」はこうした組写真によって流れや配置を視覚的に解釈するの一つの例だろう。
 「写真の読み方」はこの「組写真」によって、写真を「写真」のまま理解することを強力に支援したと考えてみることもできなくはない。組写真とは「写真の並べかたが話しの進行を示すこと」であることを理解させ、それを「それ」として受け止めていくようなひとつの「読み方」のかたちとして内面化されていったのではないだろうか。それであれば、一枚の写真が「話しの進行」のどこかにあることをも教えてくれるようになり、写真は常に時間軸や空間軸が先行して読み込まれるものとなる。ここに「写真の読み方」の一つが標準化されたかたちで誕生したとみても無理はないだろう。「組写真」以後の写真の撮り方や読み方は、一枚写真でも組写真でもこうした受容方法への参入・内破・脱出の試みと思える。あたりまえとなった読み方を「あたりまえな」まま撮影・受容するか、「あたりまえじゃない」ように撮影・受容してみるか。「写真を撮る側と見る側のいたちごっこ」はこうして始まったのだろう。
 するとなると「どうにでも読みとれそうな」写真とは“流れ”や“配置”をわかりやすく感じさせない写真ともいえそうだ。一枚の肖像写真を想像してみよう。それには“流れ”や“配置”がない、と言いたいのではない。そうではなくて、肖像写真は誰がいつ何処で何のために誰を撮影したのかを簡単には教えてはくれないがゆえに、作動してしまう「読み方」があってそれが“流れ”や“配置”を探る眼からなかなか逃れられないことを強調したい。
 僕たちはいつの間にか被写体の視線や容姿、光の当たり方や影の付き方というように、どこまでも着地点のない解釈ゲームに吸い込まれてしまわないだろうか。「あぁ、薄着だし初夏かな」とか「ああ、どうもここは野外だな」とか「この髪型は○○年代ぽいな」というように、“それは誰であってもいい”と思いながらも“それにしかないもの”を積極的に読みとっていく。
 当たり前といえば当たり前かもしれない。時間軸や空間軸から開放された写真なんて存在しないのだから。しかし、そもそもこのように写真に時間軸や空間軸を読み込んでいくことは、写真を「写真」として視覚的なまま理解させることを準備した組写真によって鍛え上げられたものであった(としてみた)。するとなると、時間軸や空間軸を簡単には提示してくれない写真に対して、過剰な読み込みを作動させ言語的に処理・解釈してしまうといった事態は、なんとも皮肉な帰結ではないかと思う。
 肖像写真の被写体に対して個人的関係からくる経験や記憶が発動されない時、肖像写真を「肖像写真」(言語に回収されないかたちで)として受け止める「読み方」はあるのだろうか。僕は“ありうる”と思うのだが、それは「それ」である以上語り難いものとして生息し続けてしまう難しさもある。
 「The Schweppes Photographic Portrait Prize 2004」を受賞したJens Luckingの「Tokyo」という作品に対してコメントされた「It is a strong image, with a striking composition」という内容を回避した形式的表現は、視覚性を「視覚性」として受け止める言葉としての難しさからなんとか絞り出したそれ以外に表現しようのない言い方の一つなのだろう。こうした形式的表現は対象(受賞作品)を捉える言葉としては有効かもしれないが、対象(受賞作品)が何であるのかを他者に知らせる言葉としてはいまいちな気もするが…。

※参考
・Schoolgirl photo wins top prize
http://news.bbc.co.uk/1/hi/entertainment/arts/4016877.stm
・The Schweppes Photographic Portrait Prize 2004
http://www.npg.org.uk/live/schweppes.asp

写真の読みかた (岩波新書)

写真の読みかた (岩波新書)