続・デザイン批判の困難

 デザインに「コンセプト」は、本当に必要なのか。そのコンセプトは、あるデザインに対して、どれほど固有の関係を持ち得ているのか。むしろデザインにおけるコンセプトなど、状況に応じてどのようにでも語れてしまう、不安定で都合の良いコトバなのではないか。その意味で、デザインにとってのコンセプトとは、決定的なデザインなど存在しないという無根拠さを露見させないための、苦肉の策程度ではないか。

 このように考える私にとって、平城遷都1300年祭マスコットキャラクターの愛称をめぐる騒ぎ(http://mainichi.jp/select/today/news/20080302k0000m040103000c.html)は、明治学院大学ロゴマークをめぐる騒ぎと同じく、「デザイン批判の困難」を考えさせられたトピックである。念のため、以下は「意見の一つ」としてご理解いただければ幸いである(問題の画像は→ http://www.1300.jp/mascot.html)。

「交流と創造の舞台として、間もなく1300年の時を刻もうとしている平城の都・奈良。「平城遷都1300年祭」のマスコットキャラクターは、この地で育まれてきたエネルギーの化身として現代に姿を現しました。その容姿は、奈良の守り神として多くの人々に親しまれている鹿の角をたくわえた愛嬌のある童子のようないでたちです。悠久の歴史の中で奈良の地を守り育ててきた仁王さまや阿修羅、十二武将、四天王などの使命を受け継ぎ、現代と未来を結ぶ新しいキャラクターの誕生です。これからは、来るべき2010年の祝祭に向けて私たちとともに暮らし、まちのあちらこちらに出没して、訪ねる人々を古都のさまざまな魅力に誘うとともに、みんなで手を携えて奈良の新たな歴史を築いていく役割を担います(「平城遷都1300年祭マスコットキャラクターのコンセプト」http://www.1300.jp/080212mascot/mascot01.pdf)。

 このコンセプトは、「鹿の角をたくわえた愛嬌のある童子」がどのように描かれたとしても、受け入れ可能なものとなっている。したがって、どんなに人々が今回のマスコットキャラクターが視覚的に気に入らなくとも、それは柔軟に解釈可能なコンセプトの中で処理されてしまい、デザインそのものに変更を求められるものでもない。

 もっともデザインとコンセプトの結びつきが代替不可能であれば、デザインの問題を、コンセプトから「擬似的に」解決を図ることができるだろう。しかしデザインとコンセプトの結びつきが代替可能な場合は、どんなに決定されたデザインが人々に支持されなくとも、その決定を覆す確実な批判を展開することは困難である。固有性を持ったコンセプトとデザインには批判が可能なのだが、どのようにでも解釈できてしまうコンセプトとデザインには、批判するための立ち位置が確保できないのだ。

 したがって、どうしても黙っていられない場合は、批判するための理由をデザインの外部から密輸入することになる。

「…このキャラクターに対しては賛否両論あり、かつ否定意見が大多数を占めている事は明らかです。
 気持ち悪い、可愛くないを始めとし、仏様に角を付けるなど冒涜だと言った意見もあります。
 このキャラクターは同年3月12日まで愛称を募集しているが、決定から発表までに1年間隠されていたと言う。デザインも公募ではなく、大手広告代理店を通して内々に決定された。
 マスコットキャラクターの選定には12人のデザイナーから21点が提出され、その中から遷都1300年祭事業本部の選定委員10名によって決定。
 これにかかった費用は、デザイナー12名へのギャランティ等500万円と、決定したデザインのデザイナーである薮内氏から著作権を買い取るために500万円、合計1000万円が使われています。
 選定過程は全く公表されておらず、デザイン料としてはかなり高額な報酬が発生しているのですが、これらの資金がすべて県民の血税が使われているのです。
 県民の意見など全く聞かず、高額の制作費を税金から出しておきながら出来上がったものは仏様に鹿の角で半裸、一目見てかなりの人が嫌悪感を覚えるものだった。
 当然2ちゃんねるmixiでは多数の反対意見と少数の賛同意見がぶつかり合う形に。
話題性だけではトップクラスになったわけですが、親しまれるべきキャラクターとしては致命的なまでのマイナスイメージを持つに至りました。
 本当にこのままでいいのか!」
http://www.youse-factory.com/purpose.html

 好き/嫌い、可愛い/可愛くない、冒涜である/ない…。今回のマスコットキャラクターを見た限り、個人的にはこのような気持ちを理解できる。しかしこれらは、今回の選定を覆す根拠にはなりえない。なぜならこれらは、今回のマスコットキャラクターに固有した問題の十分な指摘には成りえていないからである。これを認めてしまえば、いかなる選定に対しても、覆しの可能性を認めることになり、事態は無限に後退してしまう。

 また、公募か大手代理店かの選択、選定委員の選択と彼らによる決定、費用の見積もりと配分、選定過程の公開などについても、気持ちは理解したい。しかしこれらも、今回の選定を覆す根拠にはなりえない。こうした手続きは、他の業務でも行われることであり、今回のマスコットキャラクターに固有した十分な指摘には成りえていないからである。

 違和感を述べていくことは、当然ながら重要だ。しかしこのように、批判の根拠を外部から密輸していては、うまくいかないだろう。問題に対する固有性を十分に指摘できない限り、それは確実な批判にはなりえないからである。それでもこのような批判を続けるのなら、自らもまた同じように、自らに対しての「的外れ」な批判を無視してはいけないことになってしまうだろう。

 要するに、もし今回のマスコットキャラクターの件で、確実な反対を展開するのであれば、以下のような手続きが考えられる。(1)現在のような、マスコットキャラクターへの反応を止める。(2)コンセプトへの反応も、とりあえずはやめる。(3)次に、どうにでも解釈できてしまうコンセプトを差し戻す。(4)そして、今回のマスコットキャラクターとの結びつきが代替不可能であるコンセプトの提出を求める。(5)その上で、コンセプトを問題にしながら、マスコットキャラクターのデザインに変更を求めていく。

 相手と同じテーブルの上に乗っているかぎり、問題はなかなか解決しない。なぜならそのテーブルそのものが、相手によって与えられているからだ(すべての批判は、織り込み済み)。したがって選択肢の数を真に受けるのではなく、そのような状況そのものが選択されているということから、批判を始めるべきなのだ(選択の選択が問題なのである)。

 もし今回の件が、このような過程を経ることがあれば、とても画期的なことである。しかし本音を言えば、冒頭に予言したように、(4)でつまづくだろう。デザインそのものは「コトバ」ではないという、どうしようもない事実が、冷徹に立ちはだかるからだ。だから、あのようにマスコットキャラクターを描かなくてはならない確実で決定的な根拠も、見つからないだろう(言語的なコンセプトに回収されることなく、自由にどのようにでも描けてしまうことこそ、デザインの楽しさなのだから)。

 コンセプトを、小馬鹿にしているのではない。悔しいけれども、デザインとコンセプトの関係など、そんなものなのだ。だからこそ、根拠のないデザインに、根拠を求めてしまうような私たち自身のきまじめな反応こそ、深く反省しなくてはならない。人間がデザインについて話しているのではなく、デザインが人間を媒介にして話しているだけなのかもしれないのだから(笑)。

平城遷都1300年祭マスコットキャラクターの愛称を募集!
http://www.1300.jp/mascot.html 
▼平城遷都1300年祭:マスコットキャラに市民から批判
http://mainichi.jp/select/today/news/20080302k0000m040103000c.html
平城遷都1300年祭救う会
http://www.youse-factory.com/purpose.html
▼1300年祭りマスコット白紙撤回
http://mixi.jp/view_community.pl?id=3080564
明治学院大学ロゴマークをめぐる「デザイン批判の困難」
http://d.hatena.ne.jp/oxyfunk/20060914