美大生なのに、絵が描けないかもしれない不安
ご無沙汰しております。あっという間に、博士課程も三年目。レオパレス21のような福武ホール(http://fukutake.iii.u-tokyo.ac.jp/)を見る度に、「入るのが簡単になった分だけ、消え去るのも簡単になったな…」と思うこの頃。やるべきことを、始めることにしました。
さてマンガ・映画・テレビドラマなどが美大を取り上げる時、その多くはファインアート系の学生を描く。『ハチミツとクローバー』などは分かり易い例で、要するに「自己表現」に葛藤する若者を描くのである。しかし美大と言ってもいろいろで、みんながみんな、アーティストを目指しているわけではない。
学園祭や卒業制作展に行くと、ファインアート系の学生は、他コースの学生から微妙な扱いを受けていることがよくわかる。また美大と言っても、殆どの学生は普通に就職を目指している。その意味で「美大系だよね…」という一見無難なコメントは、実は何も述べていないのに等しい。
といっても、一般大学との差異はある。こだわりを感じる氏名が多かったり、スニーカー率が高かったり…等々。合理的に単位を取得することしか考えていない「みんなのキャンパス」(http://campus.nikki.ne.jp/)に比べ、「ムサビ日記」(http://www.musabi.com/)などを読むと、一般大学の学生にはない美大生固有の誠実さを感じたりもする。
入学試験で「デッサン」が必須ではないコースもある。だからこそ学生は「美大」を選び、またそれゆえに学生は悩む。「美大生なのに、絵が描けないかもしれない不安」である。しかしこれは、誠実な悩みである。こうした悩みによって、学生は大学で何をすべきなのかを「真剣に」探すことができるからである。
美大生=デッサンという組み合わせを解除すること。そしてこれから生じる不安を、動機に変換させていくこと。多くの一般大学では、学生間で共有すべき前提すら共有されないだろうから、この方法は採用できない。その意味で、デッサン抜きで美大を選択するということは、無難に一般大学を選択するよりも、問題意識を育んで行き易いのではないだろうか。
学生としての安住のできなさこそ、「ムサビ日記」が「みんなのキャンパス」化しない理由なのだと思う。
※神戸芸術工科大学での講義「デザインを語ることは不可能なのか」が収録された『文字のデザイン、書体のフシギ』(左右社、2008年)が刊行されます。内容的には、「音楽を語ることは不可能なのか」、「デザインを語ることは不可能なのか」、「日本におけるデザイン雑誌の歴史」、「デザインが語られ始めた時」、「デザインは語れないと語られ始めた時」、「デザインを語ることは不可能なのか」といった順番で、要するに「美の本質」を強く信じている限りは、無口な作家と饒舌な批評家の循環運動を止めることはできませんよ…というお話。しかし講義をテクストに直すのは意外と難しく、奇妙な文体になってしまって大反省。その点を引き算して、大型書店のデザイン棚などでご笑読頂けると幸いです。
※追記:「文字」や「書体」についてしっかり述べている他論考と比べると、拙稿はかなり浮いていました(涙、というか「文字」「書体」縛りは講義の時点ではなかったのです…)。また画像の引用元を完全に示していないし、結論はグダグダの意味不明な自分語りで、大反省(トホホ…)。それから、日本経済新聞の別冊『THE NIKKEI MAGAZINE』(No.54、2008年5月18日)の記事「たかが包み紙、されど包装紙」の取材協力に応じ、簡単なコメントが掲載されました。百貨店の包装紙に関心のある方はどうぞ。
文字のデザイン・書体のフシギ (神戸芸術工科大学レクチャーブックス…2)
- 作者: 祖父江慎,藤田重信,加島卓,鈴木広光
- 出版社/メーカー: 左右社
- 発売日: 2008/05/19
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