高校生と大学生の差異

 たまに高校へ行くと、学校的日常にぐっと吸い寄せられる。バス停から校門まで小走りする生徒がいて、校舎に入れば上履きに履き替える。どこかそっけない事務室と靜かな校長室を横目に、手描きのポスターが貼られた廊下を足早に抜けると、ざわざわとした職員室に着く。8時半の日差しが眩しい。いつの間にか私も、「おはようございます」や「こんにちは」を自動反復している。教師であれ、生徒であれ、とにかく高校は「声」に溢れている。

 このような学校的日常だからこそ、「シカト」は独特な効力を持っている。初期設定の軽い不履行も、された側にしてみれば、初期設定そのものからの排除と思えてしまう。したがって本人の意図とは別に、とりあえずの声の掛け合いが校内に溢れかえる。同じ校舎にいる限り、また同じ制服を着ている限り、これが無難な処世術である。

 ところが大学には、上のような意味での学校的日常がない。というか、それからの脱出こそが「卒業」である。したがってキャンパスでは、挨拶の自動反復がない分だけ、「シカト」の効力も減じる。同じ制服を着る必要もないので、他人のふりも簡単だ。他者を軽く認識しつつも、それ以上の好奇心がないことも示す、所謂「儀礼的無関心」は、高校までの学校的日常からの離脱によって確実になる。

 高校生と大学生におけるサブカルチャー受容の差異は、こうした学校的日常の有無と関わっているように思う。

 高校生は、どんなにバイトで稼いだとしても、その前提である校舎と制服を簡単に変えることはできない。だからこそ、出会える他者はどうしても限られ、その中でコミュニケーションを育むことになる。簡単には取り替えることのできない学校的日常のなかで、友人関係を確認するために用いられるのが、少額でも購入可能な音楽や漫画である。環境の同質性をある程度は受け入れなくてはならない以上、環境には還元できない文化的コンテンツの受容の差異によって、人格の類型が試みられる。

 ところが大学生になると、制服はなく、同学年の人数も増え、キャンパスそのものが分散していたりもする。バイトやコンパに費やす時間も増え、出会える他者の範囲は格段に拡がり、こうした中でコミュニケーションが育まれることになる。つまり高校生の学校的日常とは異なり、友人の代替可能性が相対的に上昇する。

 だからこそ、他者との関係性を確認するコミュニケーションの資源も変わる。学校的日常においては、環境の同質性が前提だったので、環境には還元できない内面的な部分が友人関係を形成する資源と成り得た。しかしこの前提が緩んでしまった以上、何かがもう一度設定されることになる。

 そこで(私がそれとなく聞いた限りの)大学生は、音楽や漫画よりも、ファッションを優先する。とりあえずは「○○系」という外見上の近似を確保してから、コミュニケーションをスタートさせる。だから「どんな音楽が好きか」や「どんな漫画を読むのか」といったことは、友人関係に強く作用しない。そうした趣味があったところで、「○○系」の関係性が揺らぐことはないのだ。

 そもそも儀礼的無関心とは、都市で見かける全員に挨拶をしていたら、それだけで無限後退をしてしまうという身振りの話であった。だからこそ、他者を軽く認識しつつも、それ以上の好奇心がないことも同時に示すことで、その場をやり過ごす(ゴッフマン『集まりの構造』誠信書房、1980年、p.94)。となれば、他者に好奇心を持つ以前に、他者をどのように認識するのかが、どうしても問題となってくる。

 その意味で、他者と無限に出会えてしまう(かもしれない)大学生のキャンパス的日常において、音楽や漫画よりも、ファッションが優先されてしまうことは、ある程度の首肯性を持つ。出会える他者の範囲が変われば、コミュニケーションの前提や資源も異なってくるだろう。コミュニケーションを始める前に、何を前提とするのかも、結局はコミュニケーションしなくてはならないからである。

 見えてしまうものを無視するよりも、見えてしまうものに対してそれなりの反応をしてあげること。ちょっとくやしい所もあるが、その方が誠実な対応なのだと思う。

集まりの構造―新しい日常行動論を求めて (ゴッフマンの社会学 4)

集まりの構造―新しい日常行動論を求めて (ゴッフマンの社会学 4)


 向ヶ丘遊園地に続き、2009年9月末には多摩テックhttp://www.tamatech.jp/)が閉園のようで、多摩丘陵から観覧車がまた一つ消えてしまうのは残念。最近は、ライブで偶然見た「唄子」(http://www.myspace.com/utako635)を聞いております。下北沢のmona record(http://www.mona-records.com/)っぽい音だと思っていたら、そちらでCD販売したり、ライブもやっているとかでした。