展示物としての論文

 18歳の頃、「えっ?シェイクスピアス?」とマジメに聞き返した友人がいて、当時所属していた大学の社会的な位置を改めて知ったことがある。だから7年前に、「ドストエフスキーって誰なんですか?」(大学院生)→「私はついにその日が本当にやってきたことを理解した…」(大学教員)という小話を読んだ時には、当時の自分を笑った。教養は「崩壊」を語ることで、かつてはあったかのようにされる。程度の差はあれ、自分も同じ罠にはまっていたのだ。

 特集「大学の絶望」(『中央公論』2009年2月号)には、その小話の続編があったが、今回は教養論というよりも、「テクニック集」であった。板書の際に「この汚い文字が読めれば、どんな文字でも読めるようになる。その逆はない」と先生はおっしゃるが、それって板書による講義を大切にすることとは別の問題では……。

 個人的には、特集「ブルータス大学開講」(『BRUTUS』2009年2月1日号)のほうが、優れたテクニック集だったと思う。何も無理に「教養」と呼ばなくてもよい知識には、それに合わせた伝達方法を選択すればよい。その意味で、宇川直宏京都造形芸術大学教授)や伊藤ガビン女子美術大学教授)などの試行錯誤は、そのノリについていけない学生もいるだろうが、「教養」だけには回収されない知的活動の面白さを学生に示していると思う。

 要するに、大学で扱う知識の領域を拡げざるを得なくなった。すると、これまでの伝達方法では、それらをうまく扱いきれない。そこで教養論というよりも、テクニック集の方が首肯性を持つようになってしまったという、これまた小話(の反復)である。

 ところで昨年の今頃、「展示物としての論文」を観た。論文は基本的に一人でこっそり読むもの…。そう思っていた私にとって、執筆者自身がレイアウト・装幀・製本までを丁寧に行い、それぞれにディスプレイした台の上に論文を「展示」している様子は、全く新しい風景だった。論文の内容には反映できなかったけど影響を受けた本や、執筆中にしばしば口に運んだお茶や御菓子なども一緒に置いてあった。

 卒業論文の出来上がりからは溢れ出てしまう「何か」。それが一緒に展示されているからこそ、かえって四年間の試行錯誤を伺うことができる。通常であれば、書いて終わりの卒業論文。それで済むなら、それでいい。しかし教養論だけには回収されない出口もあったほうが、学生にとっては幸せな旅立ちになるのだと思う。

 今年の展示は、1月23日(金)から26日(月)までとのこと(http://apm.musabi.ac.jp/sotsuten08/)。「美大生なのに、絵が描けないかもしれない不安」との誠実な格闘を、是非ともご覧になって下さい。相対性理論の新譜『ハイファイ新書』を軽く口ずさみながら、私もちょっとのぞいてみます。

ハイファイ新書

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