処世術とシニシズム

 例えば、支払をすべてクレジットカードや電子マネーで済ましている人がいるとしよう。僕たちはその人のことを、個人情報を積極的に提供し更新し続けているという意味で「あの人は自分の足跡がデータ化されていることに無神経なのではないか」と思うかもしれない。それへの対抗策としては「僕は最低限の用途にしか使わないよ」という方法が考えられる。「個人情報はなるべく管理されないほうがいい、だから消極的にしか関わらないよ」というもの。情報社会のいわゆる処世術とはこんなところではないだろうか。
 しかしこれは本当に「処世術」となりえているのだろうか。酒井隆史『自由論』(青土社、2001年)は、どうやらそうでもないことを教えてくれる。情報社会において「消極的にしか関わらないよ」という、あたかもそれが自律的選択であるように思わせるその姿勢は(その自律性を促すのがポスト近代社会・ポストフォーディズム体制というわけですが)、一見したところ、情報社会から距離をとっているように思えるかもしれない。ところが実際はその逆であり、自分を管理する方法としての情報社会の論理に積極的に関わっていかないことが、その論理のさらなる強化を呼び込んでしまうのである。どういうことか。
 僕たちはなんらかのかたちで個人情報を提出しないと/流通させないと日常生活に必要な利益を得ることができないことがある。問題なのはこの個人情報を提出した/流通した時点で情報社会の論理の外にはいけなくなるということだ。私を「私」としてアイデンティファイする個人情報を他者の手に委ねるということ。情報社会の論理はこのことによって作動しているのであり、それは他者が私を管理すると同時に私が他者を管理し続けなくてはいけないという、私と他者との“相互監視”を要請しているのである。情報社会は“相互監視”をしないと、一方的な管理社会になってしまう面があるのではないだろうか。
 その意味で先の「消極的にしか関わらないよ」というのは、情報社会の論理からみるとそれが私に要請する“相互監視”からの逃亡になってしまう。自分を管理しようとしている他者をこちらから管理していくことをあきらめてしまうことは、他者による管理を一方的に引き受けてしまうことになるのである。だからそれは「処世術」どころか、それは他者の思う壺かもしれない。「個人情報を積極的に提供し更新し続けている」クレジットカードや電子マネーの使用者の方が、他者の管理する自分の情報に関わり続けるという意味で情報社会の「処世術」の担い手となりうるのである。彼らは自分の個人情報を更新・修正できる機会を継続的に維持し続けようとしているのだから。
 酒井さんは情報社会の論理から降りようとする姿勢を「シニシズム」の一つとして捉えているのだろう。それを自律的に選択していることがかえって情報社会の論理を強化してしまうという逆説を招くのが明らかになりつつ在る以上、「シニシズムは和らげなければならない」というのが酒井さんの根本的な問いである。
 情報社会の論理へのシニカルな付き合い方が、よりシニカルな結果を招いてしまいかねないという難しさ。情報社会の論理には逃げ場がないのである。だから「降りた」つもりになるのではなく、なんとか付き合い続けることが重要になる。クレジットカードや電子マネーの積極的ユーザーに対して「無神経」という以外の言葉の着地点を見つけること。一方では情報社会の論理に都合良く回収されることなく、他方ではシニシズムに陥ることのない、微妙かつ慎重な姿勢で新しい「自由」や「公共空間」の設計に関わっていくこと(アーレントの「活動」概念が浮上してくる点)。
 とにかく情報社会という「現在」において、僕たちはそれに関心をもって付き合っていく以外の選択肢は今のところはなく、シニシズム的な欲望に支えられた「処世術」には陥らいらないようになんとかしようということだと思います。

自由論―現在性の系譜学

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