装幀を想う

oxyfunk2004-07-03

 梅雨が明けたかどうかは知らない。来年1月に向けて、最近はデザイン系専門学校や美術系大学の学生さんの言葉に耳を澄ましてます。参与観察者であってもなくても「現場」で考えることによって得られることは少なくない。『反社会学講座』(パオロ・マッツザリーノ:イーストプレス、2004年)にニヤニヤしつつも、自分が「都合のいい証拠だけ」を整理して資料を不当に狭めてしまわないかとドキドキしてみたり。
 
 記述の細かい事実関係は置いておくとしても「普通な僕等の公共哲学」にて装幀へのコメントがあったことはその担当者として素直に受け止めたい。その他にもいろいろと声をかけて頂いたが、今回なによりも(改めて)知ったのは「帯」のメディア性。「なにをいまさら」かもしれないが、ココにどのような字体をどのような太さと文字間で配置するのかはとても悩むところで、今回は「帯」に細い文字を配置することでなんとか綺麗に見せる方法はないのかと探ってはみたものの、やや仕上がりが甘くなったのは素直に認めます…。

 そのあたりにある書籍を手にとって「帯」を見てほしい。カバーに溶け込んでいるとはいえないような背景色に、やや太くて大きな文字が置かれていないだろうか。それは手にとった状態ではやや違和感があるかもしれない。ところが数メートル離れて見ると「違和感」はない。「帯」の文字のあり方はこの<距離>との関係を無視できないし、同様のことはテレビにおける「テロップ」文字にも言えるだろう。あの過剰なまでの丸文字は縁取りや配色がなぜそうなのかは、自分で映像を編集してみると分かってきたりするのだ。
 
 デザインの意図を、いかにも目的に適した手段といった「科学」のように語るのはあまり好きではないし、そうした説明は何度聞いてもこじつけの域を出ないものが少なくない。それよりもデザイナーはクライアントとの距離感を大事にしてデザインを語っても良いと思う。その意味で、今回の「カバー」は≪メッセージ≫を読んだ上で制作したものの、≪メッセージ≫への素朴な解釈学的同化を狙ったものではない。「抗い」のイメージを十分に出せたかどうかは分からないが、常にズレ続けるモノとしての「<意味>」へのイメージや雪に覆われた山脈地帯を衛星から眺めたような凸凹加減(原始的なメディアである紙をクシャクシャにしたもの)は、私のささやかな≪マテリアル≫としての反応である。
 
 ところで多くの大学図書館が「帯」や「カバー」を外して保管するのは、装幀担当者としてはなんとも悲しいところだ。「帯」や「カバー」は何のためにあるのか。それは書誌学だけが扱えば良いものなのか。「帯」や「カバー」も文化として保存すべきではないか。こうした心境は、一時的に大量に貼り出されては捨てられ忘れられていく商業ポスターを制作していた頃とまったく同じである。伝統的な芸術における作者性とは異なり、商業美術におけるデザイナーの作者性は全面には出ない。しかし、それは芸術であれ商業美術であれ「作品」そのものの消去を意味するものではないはずだ。作ったものが保存されたい、と思う事自体が近代に作られた欲望かもしれないけれども。


※参考
・『反社会学講座
http://mazzan.at.infoseek.co.jp/

・「普通な僕等の公共哲学」
http://blog.livedoor.jp/ketti1018/archives/3593366.html

北田暁大『〈意味〉への抗い メディエーションの文化政治学せりか書房、2004年
http://www.serica.co.jp/256.htm