現在のなかの不在

 季節を知らせる街の音。商店街を歩いてみればすぐわかる。クリスマス、お正月、ひなまつり・・・。1年に1回やってくる「その日」のためにいろんな音が用意されている。曲名を知っているかどうかは問題じゃない。その音は<風景>をつくるのに必要なのだろう。
 さて、4年に1回の閏日。オリンピック級の周期であるにも関わらず、この日への注目は少なくないように思う。毎月29日は都道府県食肉消費者対策協議会が制定したところの「肉の日」らしいが、今日に限っては「ニ・・・ニクの日」である。ま、いいか。こういうキャンペーンっていつまで続くんだろ。4年に1度の「その日」のために音の一つくらいあってもいいのにな。
 〆切間近に斜め読みした写真論を2冊。

 読むたびに「うっとり」してしまう港千尋。「<記憶>の政治学」なるものが問題になりだすまでは自明の存在だった<記憶>。港はそれを「刻印の集積ではなく、ひとつの動的なシステム」として「記憶の生成論」を試みる。写真とは「現在のなかに不在を見る経験」であること、したがって撮影には「あらかじめ不在という行為をなぞるという身振りが隠されている」という指摘にふむふむ。港にとって、写真は「永遠の記憶を手にするためではなく、実は人間が喪失と不在を生き抜いてゆくために、発明された」記憶装置なのだ。身体や情報技術を<記憶>の媒体として捉えることは多いが、社会を<記憶>の媒体として捉えられることは多くない。前者が「個人的記憶」だとすれば、後者は「集団的記憶」と呼べるだろう。しかし、私はいかにして歴史の中に「集団的記憶」を発見・判断することができるのだろうか。流行として忘却させてしまわないための丁寧な記述が「記憶」研究には求められているのではないか。

 思弁的な文体を偽装した亡き母への一途な愛。写真を眺めて<<母そっくりだ!>>ということの辛さ。<< それは−かつて−あった>>と指摘した写真のノエマはきっと有名なのだろう。取り直しと撮影画像確認が容易になり、撮影の一回性という写真独特の瞬間が変容しつつある現在、本書は写真の歴史性を語るものとして読み返されるべきものであろう。「愛」なくしては書けないメディア論。