*[critique]ワークショップの帰結

 昨年と同じく、毎週月曜日は東京学芸大学へ。情報教育を専攻する学生を対象にメディア論の講座を先輩と一緒に担当しています。前半は講義が中心で、後半はワークショップ。受講者が70名以上なので、班分けをしても10グループ以上になる。これは大変だ…。只今思案中。
 
 ワークショップは、授業のバリエーションとして便利である。しかし、これには決定的なモデルがない。また、ワークショップを偽装した「講義」も少なくない。さらに、参加者に「あえて、やる」という善意的な態度がなければ殆ど成立しない難しいものだ。
 
 講義の場合は「何を話せばよいか」を考えればよいが、ワークショップの場合は「学生をいかに動かすのか」を考えなくてはならない。これはうまくいくと楽しいのだが、他方でこれは問題でもある。前者の場合は学習者の自由な行動(居眠りほかの逸脱行為)を許容するけれども、後者の場合は学習者の行動の殆どを「授業のデザイン」として取り込んでしまうのだから。
 
 確かに、ワークショップは詰め込み型教育への抵抗になっている。しかしよく考えてみると、学習者の身体をも巻き込んでいるという意味において、ワークショップは詰め込み型教育よりも強力な管理の仕組みにもなっている。より「自由な学び」のつもりが、より「不自由な学び」になっている。「楽しさ」「緩さ」「実践」を過度に強調することが、結局のところでどんな帰結を導きつつあるのか。これに無自覚なワークショップの量産は避けたいところだ。

 それはそうと、ボノボbonobos)の『あ、うん』を購入。いいです、ダブは本当に。熱ーい夜に、波音が聞こえる処でカレーでも食べながら聴きたい音。昨年の恵比寿でのライブを逃したので、今年は日比谷野外音楽堂でのライブに行きたい。それから、夏フェスも。

あ、うん

あ、うん

※追記

 『メディア産業論』を生明俊雄さんから頂きました。有斐閣らしい仕上がりで、「概論」的な授業で重宝しそうです。カルチュラル・スタディーズ以後のメディア研究は、「<送り手>と<受け手>の両者を踏まえてますよ」と儀礼的に宣言することで、いつの間にか「産業研究」として仕上がってしまう。メディアを「産業」として語られてしまう現在に、一定の見通しを与えてくれる良書です。

メディア産業論 (有斐閣コンパクト)

メディア産業論 (有斐閣コンパクト)