メディア論は何のために?

 マスコミ学会での発表は無事に終了、みなさん本当にお世話になりました。発表の20分間はマシンガントークなのでどうなるかと思ったが、問題意識を丁寧に説明し、結果的にはそれがうまくいった。マスコミ論≒メディア研究の歴史学派(?)では、1990年代のカルチュラル・スタディーズ以後、国民国家批判のバリエーションとして「●●の誕生」が自己増殖中だが、それらとの違いを自分なりに明確にできたと思う。
 
 しかし、何のために「マスコミ」や「メディア」を語るべきなのか。これは結構難しい。ジャーナリズムを権力の批判装置として前提できた頃は、国家を外部に設定して研究をすることができた(と信じていたのかもしれない)。しかし現在のマスコミやメディアは多様化し、国家は政策のなかにそれらを取り込んでいるわけで、単なる規範論的研究は批判として効力を発揮しないし、研究としての独自性も弱まっている。現在、国民国家批判が「単なる歴史」としてしか読まれない理由の一つもここにあろう。1990年代のカルチュラル・スタディーズをどのように受け止めていくのか、またしばしば語られてきた〈送り手/受け手〉図式をキャンセルして思考を試みること、これらが今後の「メディア論」の生命力のようにも思う。

 先週末は芸術学関連のシンポジウムで日本大学文理学部(下高井戸)へ。前川修さん(id:photographology)、増田聡さん(id:smasuda)ほかのお話を聴き、懇親会では谷口文和さん(id:taninen)と談話。ここ数年、お互いを「はてなID」で紹介し合う機会が増えましたね…。なんとも不思議な気分ですが、これはこれで前提をかなり省略できるので助かる。渡辺眞さん(意匠学会)とモダンデザイン論議で盛り上がっている間に、他の方々とお話する機会を逃す…。
 
 夏の音の追加購入は、クラムボンの「LOVER ALBUM」。カバー集ですが、原田郁子の声はいい。フィッシュマンズのナイトクルージングのカバーは秀逸。淋しい夜のやさしいパートナー。

LOVER ALBUM

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