メディアの死骸たち
九州より帰京。主な滞在地は熊本。水俣までの電車が豪雨の影響で不通だったので、予定を変更して三角(みすみ)という港町へ向かい、さらに航路で長崎・島原へ。
雲仙岳災害記念館(http://www.udmh.or.jp/)では、火砕流や土石流に呑み込まれたモノの展示が独特の存在感を示していた。なかでも掘り出されたカメラや三脚などの「取材用機材」は、何を撮影したのかではなく、何が放送できなかったのかを痛烈に晒していた。それらの記録なきメディアの死骸たちは、放送されたかもしれないイメージを鑑賞者の身体からえぐり出す装置のようであった。
きっと、それらが無口だったからであろう。モノの痕跡は、無数のことを想起させる。しかし、時間の流れには抗えず、過去を確かに想像することも困難だ。そこでメディアの死骸たちは、アーカイブや記憶の在り方に再考を促してくる。
誰も時間を保存することができない。だからこそ、記録しなくてはならない。しかし、完全な記録は不可能である。とはいえ、記録されなかったこともそれとして保存しなくてはならない。なぜなら、記録がないという記憶こそ、再訪することのない時間を想像するための資源となるからである。
予定外の訪問地での収穫は多かった。関連するかと思い、ヴィリリオを読んでみたが、やや文脈が異なる。とはいえ、「事故博物館」の構想は、恣意的な記録への抗いという意味において重要と思う。
- 作者: ポールヴィリリオ,Paul Virilio,小林正巳
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2006/02
- メディア: 単行本
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