「モデル、やっています」?

 「モデル、やっています」と言われて、返事に困ったことがある。「すごいねー」とも言えないし、かといって「ふーん」と聞き流すのも悪いかなと思ったからだ。かといって、それを認めないというのではない。

 しかしモデルを「自己表現」であるかのように語られるのも、それなりに辛い。というのも、それを聞かされる私は、「そこには確かにあなたが写っているが、あなたでなくても成立したかも…」と、考えてしまうからである。

 これは、意地悪ではない。モデルは、それが服飾等を印象づけるための媒体である限り、どこかで主体の代替可能性を肯定しなくてならない。しかしこの人材の流動性の高さが、自己承認をめぐる不安を引き起こす。「この撮影は、本当に私でなくてはならなかったのか」と。その意味で、モデルになるとは、こうした不安を引き受けることなのだ。

 だからこそか、モデルによっては、趣味や特技といった「内面」に関する情報が必要になる。これにより、外見だけには還元されない文脈外情報を密輸できる状態にして、先の不安を和らげる。私でなくともできることを、私でなくてはできないことにしていこうというわけだ。

 これは、自己承認をめぐる不安のループの入り口でもある。「私でなくともできることを、私にしかできないことにしよう」→「しかし、これで十分なのか」→「この不安を解消するためにも、私にしかできないことをしよう」→「しかし、これで十分なのか」……。きっとこれでは、本人も辛い。

 モデルは、その視覚的な華やかさの割には、名前が引き算されている。だからこそ「私らしさ」にこだわりすぎると、先のループから抜け出せなくなり、やがて燃え尽きてしまう。むしろ「私じゃなくてもいいんだけれども、たまたまね」と言えてしまう位のほうが、長持ちするのではないか。

 したがって、「モデル、やっています」と言われても、「おつかれさまですっ」位が調度良い返事なのかもしれない。変に持ち上げないほうが、お互いに楽であろう。

 芸能人やミュージシャンが、アートを趣味にしていることを黙ってはいられないことに対する気持ち悪さも、おそらく似たような構造であろう。切り口や語り口はかなり異なるけれども、「結局、言葉しかないなと思った」という点だけは、大野左紀子『アーティスト症候群』(明治書院、2008年)と同じです。

アーティスト症候群―アートと職人、クリエイターと芸能人

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