*[critique]「広告化する学習」試論暴論

oxyfunk2005-08-21

 広告とは「メディア横断的な存在」である。従って、広告は一つのメディアではない。広告は一つの産業として成立しているために、一つのメディアとして成立しているかのように思うかもしれない。しかし、厳密には違う(と言いたい)。広告とは、新聞・放送・インターネットからあらゆる日常生活空間にまで居場所を見つけてしまう不気味な存在なのである。北田暁大さんは、これを近代広告の「脱文脈性=メディア寄生性」と呼んでいた。
 

「広告は、自らが現れる場所・舞台(文脈)をけっして固定することなく、つねに新しい居場所を模索し、さまざまなメディアと表象のジャンル(新聞・雑誌・演芸・文学・音楽・ゲーム……)を横断する。広告は制度化された特定の表現形態を持たず多様なメディアに寄生しながら、日常世界の秩序だった文脈を乱し続ける。」(北田暁大『広告都市・東京』廣済堂ライブラリー、2002年、pp.32-33.)

 広告とは、あらゆるメディアのなかで、ひっそりとしっかりと呼吸をしているのである。すべての広告が「私はここですよ!」と主張しているのではなくて、多くの広告は「実はここにもいたのですよ」と話しかけていると言ってもいい。気がついたら「広告」だったというのは、広告然としない広告の在り方の典型だろう。この意味で、広告はあらゆる空間に埋め込まれていると同時にさしあたりは沈黙している不気味な存在なのだ。
 
 これは妄想でしかないのだが、ここまでの意味で、所謂「学習」は広告化しつつあるのではないかと考えてみた。学習は「メディア横断的な存在」としてあらゆる日常生活空間に居場所を見つけようとする広告と同じ論理を持っているのではないだろぅか。広告は宣伝とは異なって、特定の内容の伝達ではなく、代替可能な内容の伝達を担保する行為のことである。学習は教育とは異なって、特定の内容の伝達ではなく、代替可能な内容の伝達を担保する行為のことである(やや無理な言い方ではあるが)。この意味で、広告と学習は、伝達されるべき内容を先に固定している宣伝や教育とは異なる「受け手中心」的行為であるといえるだろう。何らかの行為をした後になって、「これって広告だったの?」と気がつくことと、「これって学習だったの?」と気がつくこととは、同じ論理構造を持っているともいえるだろう。
 
 「子どもの学力低下を心配する親が増えているなか、携帯電話を使ったモバイル学習のサービスが急増している」という(「モバイルで気軽に勉強」朝日新聞、2005年8月19日夕刊)。この話は「子どもは携帯電話をいじっていることが好きである」という前提がなければ成立しない。それを換言すれば、「子どもの注意を惹き続けられるのは携帯電話である」ということだ。つまり、子どもと携帯電話のコミュニケーション的関係の持続性さえ成立していれば、そこに学習プログラムを挿入するのも、バナー広告を挿入するのも、メディア論的事実としては大きな違いがないのである。勉強に効果がみられなくても、販売に直結しなくても、子どもにとって「携帯をいじっていた」という事実は成立するのだから。学習が広告化しつつあるというのは、この意味においてである。
 
 でも、やっぱりこの言い方には限界がある。広告は基本的に無視をし続けてもかまわない。それは商品情報なのだから、永遠に「携帯をいじっているだけ」でokでもある。しかし、学習の場合はそうもいかない。それは知識伝達でもあり、「携帯をいじっているだけ」は当人の負担の先送りでしかなくなってしまうことがある。広告の場合、内容を無視した形式的事実だけでその場をやり過ごすことができるのだが、学習の場合、広告のようにどんどんと内容を無視するわけにはいかなそうだ。
 
 こうしてみると、なぜ学習という行為には「評価」がなくてはならないのかがわかってくる。広告は「受け手中心主義」が徹底されていて、ある特定の広告が無視されても広告主がそれを確認することは制度化されていない(次にもっと効く広告をつくれば良いということになる)。だから、広告に気がつかなければ基本的にそのままで、それを無視した本人が将来にその責任を負うことは殆どない。しかし、学習の「受け手中心主義」は広告のそれにくらべてかなーり限定的である。確かに学習は「何を学ぶべきか」を最初に明確には示さない。しかし、最後には「何を学んだのか」を確認しなくてはならない。そうでないと、無視した本人がやがてその責任を負うことがあるからだ。だから、何かに気がついていなければ、自分がしたことを反省(リフレクション)することが勧められる。広告と学習の違いは、この受け手の評価の在り方にあるのだろう。
 
 こうしてみると「学習は広告化しつつある」とは、かなり限定的な言い方(メディア論的事実のレベルでしかない)になってしまいそうだ。しかしながら、ユーザーにとって何が「評価」として受け止められるのかという難しさもまたあるだろう。広告化する学習に困難があるとしたら、それは広告のように情報の一方向的な投げ捨ては出来ず、つねに「評価」をしていかなくてはならないということだろう。それは、あらゆるところに学びを遍在させながらも、常にそれらをどこかのタイミングで回収しなくてはならないという実施の難しさである。広告と学習は空間編成の論理が似ているのかもしれないが、その管理方法(完全に資本化されたの方法と制度的に何かが担保されなくてはならない方法)は異なるのだろう。うーん、ちょっと暴論だったかな?(ここでいう「学習」とは、「教育」との対応で語られるものという前提です。)

広告都市・東京―その誕生と死 (広済堂ライブラリー)

広告都市・東京―その誕生と死 (広済堂ライブラリー)