なぜ「強くあれ」か?

oxyfunk2007-12-23

 「強くあれ」。このようにしか、声をかけられない時は少なくない。勿論これもまた、一つの押しつけである。しかし人の話に耳を済ませば済ますほど、簡単に「弱くあれ」とは言えない。その弱さの肯定が、なにかしらの支配関係や現状維持を補強してしまうのなら、どうしようもなく強さを肯定していくしかないからだ。
 
 とはいえ、この「強くあれ」には、一つの前提がある。それは、私たちが「自由」に選択できるといいうことである。そして「強い」「弱い」のどちらかを自由に選択できる状況にあるにもかかわらず、いつの間にか弱さの肯定しかできないようになっていたのなら、それを脱するためにも(相対的に)強さの肯定が必要ではないかと考える。だから、常に「強くあれ」と言いたいのではない。
 
 なぜこのように考えるのか。それは、「これ以上、傷付きたくない」という気持ちを乗り越えるためである。ある消極的な態度に少しでも合理性が予期されるのであれば、その選択がどんなに問題があっても、私たちは積極的な態度による消極的な態度の「支配」を揺さぶることは難しい(数土直紀『自由という服従光文社新書、2005年、pp.152-165)。それは「これ以上、傷付きたくない」からこそ、傷がより深くならないよう我慢するという態度のことである。そしてこの態度こそ、現状の維持、そして既にある支配関係を受け入れ、弱さの肯定にどうしようもなく結びついてしまう(「これ以上、傷付きたくない」から、このままでいい)。
 
 弱さの肯定を、否定するつもりはない。しかし弱さを肯定することが、当事者的には合理的であっても、観察者的には非合理的であり、なおかつ現状の維持どころか、長期的には現状よりも後退してしまうことが予期される場合、当事者との衝突(無理解を指摘されること)を自覚した上で、観察者は「強くあれ」と呼びかける。すべての当事者性を引き受けることがどうしても不可能な以上、「強くあれ」は出来る限りの呼びかけなのである。「その弱さの肯定は、あなたが思っているよりも負荷の高い選択かもしれず、それを乗り越えるためには、あなた自身が強くなるしかない」と。
 
 したがって、ある種の支配関係からの逃れがたさを問題にする場合、弱さの肯定=消極的な態度の選択における「合理性」を出来る限り解除することは、重要なことである。しかしこれは、簡単なことではない。「これ以上、傷付きたくない」ために、より傷付くかもしれないという可能性を引き受けなくてはならないからである。
 
 だからこそ「強くあれ」は、決して冷たい呼びかけではない。それは「弱くたっていいよね」という浅い理解の彼岸にある、「…(耳を済ました内容)…だからこそ、強くなるしかないね」という深い理解をもって初めて登場する、熱い呼びかけなのである。

自由という服従 (光文社新書)

自由という服従 (光文社新書)

 

 再び京都へ。立命館大学での資料調査、日本広告学会での発表の後、京都国際マンガミュージアム(第3回ポップカルチャー研究会「私たちはなぜ〈応援〉するのか」、http://www.kyoto-seika.ac.jp/hyogen/news/071216pcken3_2.html)へ。今回も多くの方々に大変お世話になり(感謝)、来年の再調査の目処もついた。阪急で京都に入る感覚が好きなのだが、その分だけ「23時17分発 快速急行 阪急梅田行き」で京都を出る時はしんみりする。京都市バスの205番と206番の違いや、先斗を「ぽんと」と読むことを知る。写真は、水鳥の舞う嵐山・保津峡口。それから、チャットモンチーの「恋の煙」は良い(ベースもかっこいい)。