「広告」の「作動」とは何か

 ここしばらく集中力が落ちたように思い、突然にルーマンの『マスメディアのリアリティ』(林香里訳、木鐸社、2005年)を読む。これで集中力が上昇するとは正直思えないが、歴史資料ばかりを読んでいて、ネタづくしになった頭をすこしほぐすくらいにはなるだろう。7章の「広告」は、2年半前に英文で読んだところ。「ルーマン語」に精通していない私にとって、本を読みながら、本を読めていないことを確認する時間だったことをよく覚えている。以下は、ちょいメモ。
 

「広告は情報を操作しようと試みている。そしてその仕事は不誠実であり、そういうことを前提にしていることが前提になっている。それはマスメディアの大罪を自らかぶって、あたかもその他すべての番組を救おうとしているかのようである。おそらくこれが、広告が手の内を明かしてプレーしている理由であろう」(p.70)。

 広告は、「これは広告ですよ」というメタメッセージの共有があって成立するもの。これがないと、広告は「広告」として機能せず、「前提」とされるべき「不誠実」さは、誠実さをもとめるコミュニケーションから倫理的に批判されることになってしまう。
 

「広告主は広告がもっている利害関心をオープンにしている。そうであるからいっそうのこと、広告の受け手の記憶や動機に遠慮無く関与することができるのである。…(中略)…。今日では、ターゲットとする受け手がもつ動機を明らかにしないままの広告がますます増えている。それが広告であるということはわかるのであるが、それがどのようにして影響を与えるのかということはわからないままである」(p.71)。

 「これは広告だからね」という共有において、広告は私たちに語りかけてくるのであるが、「これは広告だからね」以上のことがわからないということこそ、「広告」なのである。
 

「そもそも、はて、(新しいキッチンセットを買ったものかどうか)どうしようか、と問うようにさせることが広告の成功なのである。なぜならば、まずおそらく、人の頭の中はキッチンセットではなく、なにかほかのことに占領されているほうが多いからだ。…(中略)…。広告は、意識する/意識しないという区別で展開する。そのときのパラドックスは、意識的な決定が無意識のうちに下されている、ということである。それはしかし、やはり自由な選択というモードで行われるのであって、強制や脅迫、あるいは間違った事実による見せかけのもとに行われるものではない」(p.73)。

 「広告の成功」とは、具体的な何かを購入させるということではなくて、「どうしようか」という問いが作動するかどうかによって決定される。そして、これは「自由な選択」に開かれており、示された商品とは別の商品を選択する偶然性をシャットアウトすることはできない。ある具体的な対象に限定されるのではなく、それが「なにかほかのこと」と常に一緒に循環し続けることが、「広告」なのである。
 

「…広告は表層の稜線を利用して、その深層を匂わせる。その意味でそれは、装飾の芸術と同様である。しかし、深層とは、それは広告の宿命ではなく、その拘束力のなさである。…(中略)…。マスメディアのシステムにおいて、広告は別の法則に従っている。それはそのデザインの表層を占拠しながら、そしてそこから、自分自身も近寄ることのできない深層を示唆している」(pp.77-76)。

 「広告」は、ある対象が存在することを示すと同時に、ある固有のものへとは還元できないなにかが存在することも示す、奇妙な存在である。その意味で、広告の生命線は、ある対象を魅力的であるということをを知らせると同時に、それへの辿りつけなさも知らせなくてはならない、コミュニケーションの二重性である。
 
 「広告」の「作動」とは何か、程度のイメージは掴めた気はする。要するに、広告制作者=形式主義者たちは、「不安」を与え続けなくてならないのだということだろう。広告制作者が「宗教人」や「やーさん」とおんなじように捉えられる理由はここにあるのかも。

マスメディアのリアリティ

マスメディアのリアリティ