知の大三角形

oxyfunk2004-12-08

 冬の大三角形といえば、ペテルギウス(オリオン座)・シリウスおおいぬ座)・プロキオンこいぬ座)のことであるが、「知の大三角形」と揶揄されるのは岩波書店朝日新聞東京大学である。それぞれに面白さと難しさはあるとした上で、いわゆる「知識人の終焉」的語りや認識は、その内部においてはそれとして流通するだろうが、その外部の者にとっては「知識人」とまではいかないものの、「知の大三角形」の点線がちらほらすることは少なくないと思う。これに「へっ!」と思うのは、近代日本における知識人が大衆の登場とセットになっていたからであり、違和感を感じて当たり前のことなのだと思う。知が「知」として在るためには、それが育まれ、鍛えられ、流通させるネットワークが必要なのだから、「知の大三角形」らしきものの存在を感じてしまわざるをえないし、それを一方的に「いらん!」と否定する根拠は立たないだろう。こうした内部/外部の境界設定は、いわゆる「知識人」に限らず、いろいろなカテゴリーが登場する時に言えることだし、他人事ではなさそうだ。
 朝日新聞による東京大学への寄付講座「政治とマスメディア」(法学政治学研究科)の企画である「公共政策セミナー」の記事を読んだ(朝日新聞、2004年12月8日)。講座開設の知らせを聞いた時、「マスメディア」と名前が入っているものの、いわゆる新聞研究・放送研究の歴史をもつメディア研究とはほとんど接点をもたないものだろうと感じていた。「政治家や官僚、ジャーナリストらを招いて、政策決定の動きやメディアの役割について論議する」のは大事なことだと思うが、こうした講座はしばしば実務者の経験談を学生に聞かせるというもの以上にはならない難しさがある。参加者の構成を除いた上で、構造と呼びうるものがあるのなら、公開講座やカルチャーセンターにおける講演者→聴講者というものと変わらない点が少なくないはずだ。「とかく「象牙の塔」にこもりがちな大学の門を開いて「現場」との懸け橋を築こうという狙い」なら、特に新しさも感じないし、法学政治学研究科の院生が自分の居場所を「象牙の塔」と呼んでいるのかは怪しい。内部のジャーゴンが外部にとって「ハァ?」であるように、外部による「殺し文句」が内部にとって「ヘェ?」なこともあるだろう。
 民主党岡田克也さんは「いまは、政治家の誰々が飯を食ったとかいう政局報道が多くを占めているが、いずれ政策報道に移れば、選挙も政策中心で争われるようになる」という。外務審議官田中均さんは、メディアにおいて外交政策を巡る議論が「国民の前で行われていない」という。ジャーナリストの田原総一朗さんは、「テレビは、論理に訴えるよりも感情に訴える」という。千葉県知事の堂本暁子さんは、「メディア自体がいまだに中央集権的だ」という。こうした話を聞く機会は貴重だし、政治的な関心によるメディア観は養われると思う。しかし、メディアの効果ではないところでの議論には及んでない印象をもった。本当のところはどうなのだろう?
 そもそも「第一線の「大物」」は、学生を「圧倒」するためだけに大学に来ているのではないはずだ。講師が「本音」を話すように、院生や教員の「本音」の声が記事からも聞こえてきてもいいんじゃないのか。この講座の記事を読んだ限りでは、朝日新聞は「朝日新聞」として、政治家は「政治家」として…、学生・教員に語りかける場になっているような印象をもった。他に記事の書き方はなかったのか?
 こうした「政治とマスメディア」という寄付講座を取り持つ朝日新聞には、「紙面審議会」以外でも朝日新聞自体に問いを投げかけるような展開を、講座での議論や紙面での記事に希望したい。今回は岩波書店は含まれていないけれども、「知の大三角形」どころか「馴れ合いのの大三角形」と思われてしまう前に。