大澤真幸・北田暁大「「その程度のもの」としてのナショナリズム」『d/sign』no.10、2005年、太田出版

 「サブカルチャー」は、他方にメインカルチャーがあるからだけでなく、それがマスメディアという独占的な流通回路があったからこそ成立したカテゴリーである。マスに支えられたメインがあるからこそ、「あえて」(=雨宮的)サブカルチャーにコミットすることに意味が発生する。ところが、インターネット的流通によってマスが相対化された現在は、メインとサブを区別しなくてはならない強い動機がない。だからこそ、素朴な「リアル」(=窪塚的)が成立してしまうのだろう。北田のいう「サブカルチャー若い人たちを媒介することが不可能になってしまっている」事態とは、この転換を意味しているのだと思う。
 僕としては、メディアに対するリテラシーの相が、<メイン/サブの区別(1980年代的)>から<メイン/サブの区別の放棄(1995年以降)>へとズレたものとして理解した。ナショナリズムも同様に思えるところがある。二分法とその区別がかつてのように成立しないからこそ、柔軟な身のこなしとしてのリテラシーが呼び出されず、逆に短略的な「リアル」が先行してしまい、じっくりと問題にしにくいのだろう。