福本イズムと知識人批判

 元気です。無理をせず、しっかり進めています。分析編を改めて読み直すと、ぎこちない文章に腹が立つ(笑)。執筆時における確信の度合が異なるので「当たり前か」と思いながら書き直し、残るは結論と序論。とにかく前進あるのみ。頑張ります。
 
 「分離・結合」による「理論的闘争」で知られる福本和夫と「福本イズム」について集中的に調べた。修論では示唆する程度に終わってしまうが、1920年代から1930年代の日本共産党をめぐる動きは<広告制作者>にとっても重要である(と勝手に信じてる)。乱読したなかで当時の様子をよく知ることができたのは、思想の科学研究会編『共同研究 転向(上)』(1959年、平凡社)の藤田省三論文「昭和八年を中心とする転向の状況」だった。
 

「われわれ日本のインテリゲンチャは、独創性をほとんど持ち合わせないにもかかわらず、絶えず自己の独創性を意識しかつ主張するのである。したがって、このオリジナリティ主義は、明らかに自己認識不能自己欺瞞症の露呈でしかないのである。自己の超越を含まぬ日本からの超越理論が生まれるのは、けだし当然なのである」。

 
 藤田による福本イズムの分析が興味深いのは、西洋と日本の間を彷徨う日本の知識人への批判ともなっていることである。「西洋」と「私」を直結させることで「日本」を批判しようとする戦略自体は、現代でも生き続けているといっても言い過ぎではないように思う。その意味で「福本イズム」は参照されるのであろう。また直接の言及ではないが、これは当時に流行していた加藤周一の「雑種文化論」や梅棹忠夫の「文明の生態史観序説」への、藤田なりの距離感ではないだろうか。

転向(全3巻)

転向(全3巻)