2004-01-01から1年間の記事一覧

団塊ジュニアを語る言葉

サングラスを買った。連日のコピー対策用にと思ったのだが、前髪が目の邪魔にならないようにおでこにかけるほうが使い勝手が良い。サングラスといえばみうらじゅん。似合っているのかいないのかがわからないところが良い。新聞(朝日新聞2004年8月23日付夕刊…

藤原帰一『平和のリアリズム』岩波書店、2004年

姜尚中さんは僕等の世代を「Generation Between Wars」と呼んだ。冷戦終結から湾岸戦争とイラク戦争にかけての間に青春期を過ごした若者のことである。僕たちはなんとなく「時代の変化のなかにいる」と感じているにもかかわらず、「それが何から何への変化な…

袖井林二郎『マッカーサーの二千日』中公文庫、2004年

占領期の広告制作者にとって彼はどのような存在だったのだろうか。

研究に近道はない

寄り道をした。照明が明るいところで、商品が沢山並んでいるところで、大きな音を聴きながら、なんとなく時間を費やすのは楽しい。なんかいろいろ買い物をしたくなってきたぞ。 吉見俊哉さんから研究に大事なものは「執念」だと教わった。実際に資料と向き合…

玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』晶文社、2001年 / 小杉礼子『フリーターという生き方』頸草書房、2003年

若年労働の問題は増加するクリエイター職とも関係があるのではないか。“○○として働くことへの想像力”をいま一度捉え直してみたい。自由に職業を選択するとは、どのような条件の下で可能なのだろうか。就業させるための方策を練るのではなく、就業を留保する…

アジール・デザイン編『風とロック』晶文社、2004年

広告は「伝統芸能」化しつつあるという箭内道彦の姿勢は興味深い。作品を見ているだけでは決して知ることのできない、“いま、広告制作者であること”の記録。トランスアートじゃなくて晶文社なのが妙に嬉しい。

丹治愛編『批評理論』講談社選書メチエ、2003年

電車の中でサクッと読了。「テクストの可能的意味」を引き出すための入門書で、その狙いは文学に限らず、なにかを「テクスト」化して解釈していくため。

未来みたいな匂い

コピーの光が眩しい夏。サングラスくらいかけたい…。オリンピックや甲子園は「どうだかな」くらいの気分で、とにかく最近は一日で4年分の月刊誌を読み進めています。 資料のなかに1960年代のガソリンスタンドの写真があった。今も昔もガソリンスタンドはお…

「特集:100年前のデザイン」『d/sign』no.8、太田出版、2004年

うーん、出ましたねぇ。「100年前の細部」(古賀弘幸)における「11:図案からデザインへ」の部分は、<商業美術家>がいかに誕生していったのかを詳細にみていくことにより、古賀さんのいう「理論と広告」がかなりクリアになるはずである。書こうと思ってい…

きっとうまくいくさ。

振り向くと、女性がオロナミンCを急いで飲んでいた。さぁさぁ電車はもう目の前だし、ドアは開こうとしている。間に合うか?それでも飲み続けるか?ゲップがでても知らないぞぅ。 朝から夕べまで図書館でひたすら資料をコピーする日はいつまで続くのだろう。…

ヘイドン・ホワイト著、海老根宏/原田大介訳『物語と歴史』オンデマンド出版≪リキエスタ≫の会、2001年

なぜか訳書のないヘイドン・ホワイト。「歴史的知の詩学:ランシエールの修正主義」(渡部ちあき訳)『思想』(岩波書店、1996年8月)以来のお楽しみ。「われわれは生まれつき物語る衝動を持ち、現実に起きた事件の様子を述べようとすれば、物語以外の形式は…

仲正昌樹『「みんな」のバカ!』光文社新書、2004年

いわゆる一連の「バカ本」ではない。責任の単位や安心の単位としての「みんな」とはいかなるプロジェクトなのか。「みんな」における境界を漂い、時に「みんな」との差異を主張する「わたし」とは何者なのか。誰が題名を決めたのかが気になるが、とにかくそ…

装幀を想う

梅雨が明けたかどうかは知らない。来年1月に向けて、最近はデザイン系専門学校や美術系大学の学生さんの言葉に耳を澄ましてます。参与観察者であってもなくても「現場」で考えることによって得られることは少なくない。『反社会学講座』(パオロ・マッツザ…

酒井隆史『暴力の哲学』河出書房新社、2004年

「暴力を拒絶することは、暴力を批判することには必ずしもならない、むしろ暴力の抽象的・一般的な拒絶は、暴力を呼び込んでしまう仕組みがある」という暴力の循環に対して「拒絶」ではない「反暴力」を構想するもの。政治を目的としない暴力と政治を超越し…

三越への雑感

現在僕たちが想起する百貨店は、かの「デパートメントストア宣言」(明治37年12月)に始まるとされる。三井呉服店から三越呉服店となった際に日比翁助が「販売の商品は今後其の種類を増加し」、「米国に行わるるデパートメントストーアの一部を実現致すべく…

“あの瞬間”があるから。

聞こえる人には聞こえてる。音楽耳というものがあるのなら、きっとそんな感じだろう。大衆音楽はその歌詞で記憶される場合が少なくないけれど、「あ、この曲いいね」と前面に出てくるのは歌詞でも、メロディでも、ソロでも、リズムでもいい。映画『永遠のモ…

記録することの難しさ

「私は人間が嫌いだ。」そういう人がビデオジャーナリストに向いていると野中章弘(アジアプレス・インターナショナル)さんから学んだ。「私は人間が好きだから」ということで見えなくなってしまうことは少なくない。ビデオジャーナリストは「なんで人間は…

遠くを見ながら君の話を聞きたい場所

都心の方には田舎者と呼ばれ、上京した方には東京者と呼ばれる僕のような<郊外者>には、回帰できる原風景はビル群や森にはない。そびえ立つ鉄塔線とか、ゴルフ場とか、団地とかそんなものである。そんな僕にとって、ダイエーは“世界”だった。 買い物が好き…

CGじゃないってば!

例えば美容室。「ご職業は?」にとりあえず「デザインっす」と返すことは少なくない。その途端に「あ〜、CGですか」とお返事を頂けるのだが、本当のところは「CGじゃないってば!」なのである。デザインが想像させるものがCGであること。きっとそうなったの…

正義の味方じゃない。

「レンジャー」ものの季節である。色別の性格は「お約束」であるが、もはやそれらが変更できなくなってしまった様子も観ててツラい。「GO&SEE」(朝日新聞2004年5月24日夕刊)では、木工教室に現れたコマレンジャーが写真付きで紹介されている。 東京都狛江…

作家のメディアの理解

おひさしぶりです。誰かのことを「サボり魔」と呼んでいた時期もありましたが、やっぱり続けることは難しいっすね。ちょっと気長に見守っていてください。 「文芸時評」(島田雅彦:朝日新聞2004年5月24日夕刊)なんて読むというよりは観るくらいのもの。な…

戸田ツトム、鈴木一誌「ブックデザインの風景化と言語化をめぐって」『ユリイカ』青土社、2003年9月号

なるほど「ブックデザインというのは、グラフィック・デザインというよりはインダストリアル・デザイン的」であり、装幀は原稿の「<身体>化」である。装幀においてどこまでが文字でどこまでが図像なのか。<地>が<図>に溶け込んでいく事態、これこそが…

なにが「トホホさ」を教えてくれるのか

靴を替えてみた。少し背が高くなった気分。ギュッと体重をかけ、新しい接触感を確かめてみた。今までとはちょっと違う「あの感覚」。これは初めてではない。こうした感覚を何と呼べばよいのだろう。身体と重力を媒介するもの。人間と地面との関係を成立させ…

石原千秋、富山太佳夫、沼野充義「カルチュラル・スタディーズ再考」『文学』第5巻第2号、岩波書店、2004年3-4月

「カルスタ仕立てのポスコロ風味」は語る、○○は「構築されたもにすぎない」と。確かにこの手の論文は多い。最初の数行を読んだ途端に浮かび上がってくる国民国家批判。こうした先読みを誘導する論文はもはや読者にとってネタでしかない。こうしてネタの差異…

引用すればするほど…

やたらと説教くさい映画「イノセンス」のことはあまり覚えていない。一つ感想を言うのなら、ポピュラーカルチャーの隙間に滑り込む「知識なるもの」の前のめりな語り方にはちょいと違和感を覚えた。いやいや、きっと士郎正宗や押井守はものすごく勉強したに…

吉田光邦『[図説]技術と日本近代化』日本放送出版会・放送ライブラリー10、1977年

『万国博覧会』研究の吉田光邦の専門が科学史・技術史だったのに納得。今思う。産業を機械化すること、生産量を大量化することはどれほどの欲望だったのだろう。いやいや、「アナログ」とか「デジタル」なんていっている僕だって例外じゃない。こうした技術…

難波功士『撃ちてし止まむ:太平洋戦争と広告の技術者たち』講談社選書メチエ、1998年

随分前から手許にあったのにも関わらず読んでいなかった書籍。そうしたものに限って知りたかったことが書いてある。戦中の広告制作者を国策協力者としてラベリングしてしまうのは難しいことではないだろう。しかし、そういってしまうことで隠蔽されてしまう…

醒めている自分に醒めた

予想が外れた。色違いだったらしょうがない。グラデーションは変化球でしょう。ところで今回に限って「ファミマガール」が前面にでていないのはどしてでしょ。像さん、立っちゃってるし。 雑誌『invitation』の古舘伊知郎インタビュー(聞き手:後藤繁雄)を…

テレビ朝日「報道ステーション」2004年4月6日

昨日はどうだったのかは知らない。それでも大きな違いはないだろうと思われるのは、スタジオのカメラワークと照明。内容だけが報道なんじゃない。報道を報道たらしめる形式もあるのだ。そうした「メディアの理解」に敏感な古館こその演出なのだろう。「ジャ…

80年代的メディア身体としての古館伊知郎

久米宏が放送中に手酌でビールを飲んだこと。それはそれでいい。出川哲朗のプロポーズ劇をアホらしいと思いつつささやかに見守る僕は、放送に「公共性はかくあるべし」というような過剰な期待をしていない。日常生活におけるテレビは他のメディアとの関係に…