石原千秋、富山太佳夫、沼野充義「カルチュラル・スタディーズ再考」『文学』第5巻第2号、岩波書店、2004年3-4月

 「カルスタ仕立てのポスコロ風味」は語る、○○は「構築されたもにすぎない」と。確かにこの手の論文は多い。最初の数行を読んだ途端に浮かび上がってくる国民国家批判。こうした先読みを誘導する論文はもはや読者にとってネタでしかない。こうしてネタの差異が論文の位置を決めるという転倒が生じてしまうのかもしれない。
 石原千秋は言う。「つくられた」というフレーズの多用は、「大衆が何かによって翻弄されるといった愚民観」につながるのではないかと。さらに言う。「「構築されたものにすぎない」という言い方をすると、構築されなかったものをどこかに夢想してしま」い、それは「構築主義を前提とした研究方法を採用しながら、語り口としてはなぜか本質主義に陥っている」と。
 つくる主体の鬩ぎあいを不問にしたまま、つくられた○○を問題にすること。「カルスタ仕立てのポスコロ風味」の隙間はここにある。主体への想像力を「つくられた○○」のようには巡らせないまま主体を措定してしまうこと。そのあたりへの疑問には沼野充義がロシア文化史から言及している。
 「あるものを論じるうえでいちばん大事なテクストはどれなのか、自分はどういうスタンスをとるのかと問いつめていくと、どこかに中心を暫定的につくらざるをえない」という富山太佳夫の「機能としての中心」にはそれが実定化しない限りにおいては同意デス。