作家のメディアの理解

 おひさしぶりです。誰かのことを「サボり魔」と呼んでいた時期もありましたが、やっぱり続けることは難しいっすね。ちょっと気長に見守っていてください。
 「文芸時評」(島田雅彦朝日新聞2004年5月24日夕刊)なんて読むというよりは観るくらいのもの。なんて思っていたのに、いつの間にか切り取っていた。
 なるほど、確かに首相は「説明よりも逆ギレを武器にしている」ように思えるところはある(笑)。政治が単純に小説化したとは思わないが、そのように捉えられることは“読みの対象”として政治が位置していることを示しているのだろう。
 政治は“書きの対象”でもある。島田は「政府与党の思惑とネットに氾濫するサヨク狩りの言説とはグロテスクに一致しているように見える」という。確かにこうした面はある。しかし、これでは言葉がどういう意味的/物質的文脈で語られているのかを混同しているように思える。「無責任な書き込み」に“真面目に”対応してみても、「ネタにマジレス、カコわるい」とまで“不真面目に”切りかえされるのがネットの言説空間なのだから。
 作家のメディア観は興味深い。今回の「文芸時評」は、島田の印刷出版におけるメディアの理解からネットという位相の異なるメディアの言説空間を捉えたものとして読まれるべきではないか。50年後、100年後に「当時の作家のメディア観は迷走していた」なんて言われたりして。