80年代的メディア身体としての古館伊知郎

oxyfunk2004-04-06

 久米宏が放送中に手酌でビールを飲んだこと。それはそれでいい。出川哲朗のプロポーズ劇をアホらしいと思いつつささやかに見守る僕は、放送に「公共性はかくあるべし」というような過剰な期待をしていない。日常生活におけるテレビは他のメディアとの関係において成り立つ相対的な存在でしかないのではないか。
 そうした「テレビ」に自覚的なのが古舘伊知郎である。彼のメディアへの距離感。それを「ニュース」に適する適さないといった規範論に回収してはならない。彼は最初から「(ニュースは)できないと思います」(朝日新聞2004年4月4日、別刷り特集)と宣言しているのだから。
 「(おれなりのニュースの)言葉探しをしたい」。この言葉を久米宏との対比だけで捉えてはならないだろう。古舘は久米に「敬服」し「感服」し「全部ギブアップ」してしているのだから。注目すべきは久米との対比では捉えることのできない古舘の「言葉探し」への欲望である。それは「アメリカ留学してジャーナリズムを学び直したとか」から生まれるものではない(笑)。それなら長野智子にまかせればいいのだ。
 「ニュース」をできないと宣言しつつ「ニュース」と向き合うこと。この奇妙な身のこなしを理解するには、古館の徹底的に私的なメディア観に注目すべきだろう。テレビに自分を任せるのではなく、自分がテレビを飼い慣らすこと。このテレビを個人化することへの欲望こそ、古館がプロレスやエンターテイメントで鍛え上げてきたものに他ならない。そこではレスラーも出演者も古館にとっては徹底的に「ネタ化」された存在だった。
 出来事を「中立的」に「公平」に語るのではなく「ネタ化」すること。そこに「ニュースである/ない」というコードは存在しない。「ネタ」としての出来事を「ジャーナリズム」するのではなく、「プロレス」化し「エンターテインメント的に」捉え、そこから出来事に逆照射していくこと。それこそ古館伊知郎という身体に刻み込まれた「メディアの理解」ではないだろうか。
 この点に注目すれば久米と古館はある意味で連続していると言えそうだ。それでも古館も求められるのは、80年代の反省として「笑い」に回収されない「出来事の語り方」を探ることだろう。テレビにおける言葉の弾み方。それに誰よりも敏感だった古館の出来事への眼差しと言葉に注目したい。
 どうかどうか力まずに。テレビにおいて「自民党と対決するのか」といった問いをカッコ入れできるのはあなたの世代だと思います。