記録することの難しさ

oxyfunk2004-06-05

 「私は人間が嫌いだ。」そういう人がビデオジャーナリストに向いていると野中章弘(アジアプレス・インターナショナル)さんから学んだ。「私は人間が好きだから」ということで見えなくなってしまうことは少なくない。ビデオジャーナリストは「なんで人間はこんなにも憎いのだろう」と自ら思い悩みつつ、それでもどうしても何とか記録をする者である。
 ある別の放送人と話をしていて思うのは、<送り手>として<受け手>を取材することがどうも善意であると捉えているのではないかという疑問である。なるほど確かに<送り手>と<受け手>がうまくコミュニケーションできない難しさはあるだろう。しかしその想いは<送り手>中心的な思考があってこそであり、そこに<受け手>はいても、<受け手>は<送り手>が手を差しのべる対象としてしか想定されていない。<送り手>自身を問わずに、両者のコミュニケーションの問題を<受け手>に語ろうとするのは(曲解されたメディア・リテラシー)、あまりにも一方的なのだ。<送り手>が<受け手>に対して善意を働いていると思っている限りこの問題はなくならない。そこでは<受け手>が弱者として前提視されているのだから。
 この弱者への想いが「私は人間が好きだから」と出逢った時、僕はいったい何を観ることになるのだろう。<送り手>の善意によって見せたいところだけを無邪気に記録した、とても恣意的なものになってしまわないか。
 <送り手>に求められるのは<受け手>への説明という行為の正統化ではない。記録することを決して特権的な善意に回収しない反省的思考。<送り手>自身への批判的眼差しなのである。メディア・リテラシーが実践者としてビデオジャーナリストを取り上げていることは、そうした意味において理解されるべきだろう。
※参考
アジアプレス・インターナショナル
http://asiapress.org/
・アジアプレス・ネットワーク
http://www.asiapressnetwork.com/
・アジアプレス編著『アジアのビデオジャーナリストたち』はる書房
http://asiapress.org/03books/books.htm
水越伸吉見俊哉編著『メディア・プラクティス』せりか書房、2003年
http://www.serica.co.jp/251.htm