“あの瞬間”があるから。

oxyfunk2004-06-06

 聞こえる人には聞こえてる。音楽耳というものがあるのなら、きっとそんな感じだろう。大衆音楽はその歌詞で記憶される場合が少なくないけれど、「あ、この曲いいね」と前面に出てくるのは歌詞でも、メロディでも、ソロでも、リズムでもいい。映画『永遠のモータウン』(@渋谷シネアミューズ)を観てそんなことを想い出した。
 興味深かったのは、リズムが組み立てられる様子を再現した場面である。打ち合わせはなくてもいい。ドラム→ベース→ギター→キーボード→タンバリンと、いまここにある音を引き受けながら、ビートを弾き返していく“あの瞬間”には引き込まれる。
 “あの瞬間”の身のこなしを探ったものといえば『鍵盤を駆ける手―社会学者による現象学的ジャズ・ピアノ入門』。それによれば、即興とは、手の配置や鍵盤の地形のなかで、局所的に次の音という可能な道筋を探し続ける所作として説明される。音の行くべき方向は、その都度かたちづくられつつあるもののなかから探される。リズムはあらかじめ決まっているのではなく、「手探り」のなかにあるのだ。
 この「手探り」を支えるもの。それがモータウンなのだと思う。「手探り」は他者に開かれている。言語が異なるコミュニティに交わっていく時のことを想像してみてほしい。モータウン・クルーがリズムを積み重ねていく過程に僕はあの時代のアメリカ的寛容を観た。褒めるつもりはないけれど、希望のリズムに生きる<人間>の姿を伺うことができるのは間違いない。
※参考
・『永遠のモータウン
http://www.eiennomotown.com/
・サドナウ著、徳丸吉彦・村田/公一・ト田隆嗣訳『鍵盤を駆ける手―社会学者による現象学的ジャズ・ピアノ入門』新曜社、1993年
http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/4-7885-0437-5.htm