団塊ジュニアを語る言葉

 サングラスを買った。連日のコピー対策用にと思ったのだが、前髪が目の邪魔にならないようにおでこにかけるほうが使い勝手が良い。サングラスといえばみうらじゅん。似合っているのかいないのかがわからないところが良い。新聞(朝日新聞2004年8月23日付夕刊)でその姿が確認できます。
 「高円寺」に住んでいると聞くと、僕たちが想像することにいくつかの“お約束”があるかもしれない。ライブハウスの数も多いことから、「ロックとは」を(ライブハウスではなく)「焼き鳥屋」で仲間と語る街であるとかなんとか。それはそれでいいのだが、羨ましいのは「酔っ払っても歩いて帰れる心地よさ」。終電を気にしないで飲んでは、気が向いた時に徒歩で帰宅するなんて、いい…。
 「ぷち・ナショ」が「ガチ・ナショ」になりつつあるとのことで、『AERA』(2004.8.30)を購入。ふむふむ、その担い手として団塊ジュニア(「10代から20代を「失われた10年」とともに過ごした世代)があるわけですな。確かに「日本人として、誇りを持って海外に出ていきたい」という声を聞くことは少なくないな、とは思う。それでも、多様な意見の集合体である「20代ニッポン好きの理由」を「ナショナリズム」という枠組みでしか扱っていない(他の捉え方を示唆していない)『AREA』は、読者に過剰なわかりやすさを与えてしまっている気がしてならない。
 団塊ジュニアの意識を「ナショナリズム」に回収しようとする『AERA』欲望自体が「ナショナリズム」なるものへの想像力を狭めてしまわないだろうか。問題となりやすいあるひとつの言葉の弾力性を示すことも大事ではないだろうか。「ぷち」とか「ガチ」とかじゃなくて、「ナショナリズム」の語尾に「?」をつけるくらいの自己言及性があってもいいと思う。