2004-02-01から1ヶ月間の記事一覧

現在のなかの不在

季節を知らせる街の音。商店街を歩いてみればすぐわかる。クリスマス、お正月、ひなまつり・・・。1年に1回やってくる「その日」のためにいろんな音が用意されている。曲名を知っているかどうかは問題じゃない。その音は<風景>をつくるのに必要なのだろ…

書籍の<風景化>

ちょうどいい時期かもしれない。書いている「私」を批判的に見つめること。書くことの困難性と真摯に向き合った「論文作法」。こうしたものはいくつか読んできたが、清水幾太郎『論文の書き方』(岩波書店、1959年)はメディア論としても読める良書であった…

「時代のドラマ」なき<青春>

ブルーハーツが「青春パンク」として聞き直されている。「バンドブーム」世代の僕としてはちょっと恥ずかしい感じがある。当時は「人にやさしく」も「青空」もそれが<青春>だなんて思ってもいなかった。それがいまになって<青春>と呼ばれることで呼び出…

判決へのサウンドトラック

「あの日」の記憶が召還されている。新聞・テレビ・ラジオによって何重にも奏でられる判決へのサウンドトラック。「シケー」にするなというんじゃない。それでも、このクライマックスまでの調べに覚える「気持ち悪さ」の所在が気になる。「あの人」が「詐欺…

「同質な空間」という神話

ニュータウンはどこまで「同質な空間」なのか。いいや、そんな単純ではないでのはないか。そんな当たり前な印象を確かめるための映画だったのかもしれない。 映画のなかの二つの視線。記憶を再発見していく対象としてのニュータウンと美術展の対象としてのニ…

DJを語る「あの動き」

気になるといえば気になる。左手にマイク、右手はポッケ、の胴長な男性。何かがはじまりそうだ。彼の服装の賑やかな色彩は「ユニクロ」を思わせる。ところがそうじゃない。刻みはじめたブレイクビーツは「これってBGMじゃないかもしれない不安」をかき立てる…

「路上」の「歩き方」

外で大きな音を聴くのは気持ちいい。天気も良かったし、渋谷の「あの人」達は楽しく「路上」を歩いていたのだろうか。大きな音を大きな声でかき消してないといいな。うん、パレードの内からも外からも。 路上で音を聴くことと路上で声をあげることは異なる行…

「あの二人」の距離

なんとも不思議な写真じゃないか。「モー娘。」化した芥川・直木賞とかなんとかいわれていたが、これじゃあどうみても「ビジュアル系」である。ここで誰がボーカルなのかを予想するのはやめておこう(キーボードは江國香織でしょ)。 奇妙なのは「あの二人」…

「遂行的矛盾」探し魔を越えて

「思想的理由」なんかじゃない。きっかけはたまたまなのである。「肉を食べないことを選択する」ことは、そんな大袈裟なことではないのだ。たしかにその選択を「ベジタリアン」と自ら呼ぶ人もいる。しかし、「肉を食べないことを選択する」は「ベジタリアン…

キオスクと戦争の記憶

目立たないわけがない。キオスクは乗降客の視線が集中する場だ。そこで買って貰うことはあらかじめ断念し、ただただ人の眼に入ることが目的となっているような商品がある。「海軍さんのカレー」(調味商事)だ。そのちょっと時代錯誤なネーミングとデザイン…

「メタデザイン」の分裂

あの頃を思い出した。DTP黎明期のデザインの現場。デザイナーの境界が曖昧になり始めた頃のこと。ソフトウェアは「道具」じゃなくなりつつあった。それを「よく使う人」と「そんな使わない人」では同じイメージを仕上げるまでの思考のプロセスが異なるのだ。…

テレビへの想像力

「あなた」だけではない。観ることの快楽が「サブリミナル手法」の対象に転化する恐怖(?)。「マネーの虎」(日本テレビ)の担当プロデューサーは「お金というテーマを表現したかった」とか。幼稚な印象を与えてしまうこのコメントが「放送人」とそれを語…

「国際化」のアナロジー

「あなた」だけではない。観られることの快楽から「ぱくり探し」の対象に転化する恐怖。「愛知万博」PRポスターの制作者は何を思っているだろうか。「指摘」の妥当性が問題なんじゃない。図像だって引用され異化されていくのだ。だから「オリジナル/コピー…

「遂行的矛盾」を探る

時の言葉といえば「吉野家」も。昨年末までの局所的な「祭り」騒ぎを起こしていた頃から急転回。ゆでたまご『キン肉マン』の主人公が唱い踊る吉野家の「牛丼一筋300年(?)♪安いぞ、旨いぞ、でっかいぞ♪」は歴史的描写になるか。にしても、牛丼は「国民…

「ポロリ」以後

「ポロリ」が時の言葉になりつつある。「ポロリ」以後ザワザワし始めたアメリカのメディアだが、「生中継を5分遅らせて放送する」ことをすらっと決めてしまったCBSにはびっくり。「生」は放送によって作られた欲望である。それこそが<放送>の最後の生命線…

「冷め」の文体

目を向けたくないもの。積み上げられた未読の新聞。読みたくないんじゃない。読むタイミングがなかなか掴めないのだ。「あの山」に夕刊を積み重ねる前に見つけたマイム集団「水と油」の記事(朝日新聞2004年2月13日夕刊6面、オフ・ステージ欄)にふむふむ。 …

「醒め」の文体

「株式会社大学」がやってくる。それにしても「デジタルハリウッド大学院大学」という名前はどうにかならんのか?せっかくのチャンスを活かしてほしいのに。「専門職」と「学問職」の人材育成は同じ「大学院」でも随分と温度差がある。もちろんそれぞれに大…

<希望>のメディア

見ていないんじゃない。シンポジウム、研究会、講演会でスクリーンに映し出される発表資料。もちろん耳では追いかけている。それでも資料のどの部分と対応しているのかがわからないことは多い。よーく目を凝らしてみよう。小さな小さな「赤いポッチ」がスク…

マーケティングターゲットからはずれているかもしれない不安

あら、どうしちゃったの?近所のファミマが今日から「黄色い」。もはや「赤く」ないのかと、ちょっと残念に思っていたところ、よーく見たら「彼女達」の服装はそもそも「赤い」。ま、いいか、そんな細かいことは。にも関わらず、今後の展開の予想をしちゃい…

「世界の切り取り方」

定期券の期限が切れていた。思えば高校生以来じゃないか。どこかへ通っているという意識を保証してくれる定期券。ないとなんだか落ち着かない。近いはずの「あそこ」が遠くに感じる。 結局は切符を購入して電車のなかにて、フリードリッヒ・キットラー著(石…

「分解なき主体」はありえたのか

ふと目にしたのが始まり始まり。昨日も今日もアイリッシュコーヒー。ブラックにスプーン一杯あまりのリキュールを落とし込んでみる。ほんのりふかーく暖かい。ところでこの飲み物、「コーヒー=眠くなくなる」と「お酒=眠くなる」とを一杯のなかに共存させ…

「理想的なパノプティコン」の行方

じんわりと自分の周辺にも染みこんでる<ウェブ日記>。大澤真幸によるマーク・ポスター著(室井尚、吉岡洋訳)『情報様式論』(岩波書店=2001年)の解説を思い出す。 ミシュル・フーコーはベンサムのパノプティコンに近代の権力の形態をみたが、マーク・ポ…

歴史のなかの「集合的記憶」

コンビニの臭いが好きになれない。それなのにあの明るいサインをみるとどういうわけか引き込まれてしまう。そうそう、近所のファミマが最近「赤い」。女子十二楽房もそうだが、イメージとしての「アジア」が表象される時、不思議なまでにこの色が頻出すると…

あんた誰?

【予告】 ・「「メディアは二度生まれる」と写真の再発見」、「ゴダールの映画編集と歴史的想像力」@田中純 □買い物□ ・ヴォルフガング・シヴェルブシュ著、加藤二郎訳『鉄道旅行の歴史』法政大学出版局、1982年 写真をみてほしい。扉の著者紹介に付けられ…

<科学なるもの>

デザインを「科学的」に考えるセミナーに参加。時間の半分以上が「大脳科学」の話だったことに震撼。思想から意図的に距離を置いたデザイン人が、<科学なるもの>を無批判に採用・援用しているその思想的免疫のなさに少なからず違和感を覚える。そうした状…

記憶の「選択」をめぐって

【予告】 ・騙されたと思って飲んでみてほしい「ミルクチャイ」。きっと騙されるから。 ・都市における記憶の政治について。歴史的想像力を「選択」することの矛盾。(ホロコーストとWTC)@田中純□買い物□ ・森達也『放送禁止歌』光文社、2003年 高校時…

目を閉じて聞きたいベンヤミン

今日から駒場で集中講義。(田中純の語るベンヤミンと河野書店について書くつもり)□買い物□ ・佐藤康邦、安彦一恵編『風景の哲学』ナカニシヤ出版、2002年 <風景>を扱う連続講演会がパルテノン多摩であるから行こうかなと思っていたら。佐藤健二『風景の…

「郊外」の博物館

闇が光を静かに閉じようとしていた。そんなに大袈裟なものではないが、多摩センターから北へ丘陵と平野を縦断する車両からの日没は一見に値する。それだけじゃない。団地、住宅、公園、幹線道路、ファミレス、大学、遊園地、動物園、河川、高速道路、デパー…