「世界の切り取り方」

 定期券の期限が切れていた。思えば高校生以来じゃないか。どこかへ通っているという意識を保証してくれる定期券。ないとなんだか落ち着かない。近いはずの「あそこ」が遠くに感じる。
 結局は切符を購入して電車のなかにて、フリードリッヒ・キットラー著(石光泰夫・石光輝子訳)『グラムフォン・フィルム・タイプライター』(筑摩書房、1999年)を斜め読み。「世界の切り取り方」の変化を問題にしたキットラーは、「文字と文字ではないもの」という分類をしたともいえる。
 フーコーの言説分析は19世紀的「言説」を前提にしている以上、それは19世紀的な知のあり方しか問題にできないとキットラーは考える。「グラムフォン」によって「文字ではないもの」=<リアル>なものが捉えられるようになった20世紀においては、19世紀的な解釈学的地平が崩れているというのだ。すなわち20世紀的な<リアル>なものを捉えられるのは20世紀からであり、言説分析の手法自体が時代によって変化しなくてはならないということを提起している。
 なるほど、フーコー的「言説分析」の手法+社会構築主義的なものの見方をすると、テクスト=言語から出ることができないのは確かだ。文字以外の<リアル>も跋扈する現在、分析されるべき言説の最小単位は変更をせまられているといえるだろう。しかし、いかなる「世界の切り取り方」=記録であっても、記録をした時点で<リアル>ではなくなることを確認しなくてはならない。<リアル>なるものを記録する方法が複数化した以上、それを分析する方法も複数化せざるを得ないのだ。キットラーはここを強調したかったのではないか。
 それでも私はまだフーコー的言説分析を手放せない。<感性>という非言語的な言語が奇妙に機能している世界がそこに有る限り。ある「言葉」としての<感性>が「実定性」をもっている以上「言葉」で内破できると信じたい。<感性>を「大脳科学」だけに還元されないために。

□買い物□
小田中直樹、『歴史学ってなんだ?』、PHP研究所、2004年
 音楽でいう「レーベル」のアナロジーで出版社を認識することがある。PHP新書の歴史系は主張が明確な書き手が多いし、彼らの前のめり具合に違和感を覚えていたので手に取ることはなかった。「試行空間」の紹介文を読んだあと、引用文献リストを見てふむふむ。歴史小説と歴史書の違いを明らかにしながら、歴史学の居場所を探るもの。「PHP新書の歴史系」と思いつつ。
 
・季刊『デザイン』特集:デザインの細部、no.6、太田出版、2004年
 教えてほしい。この雑誌を「読みやすい」という人がいたら!テクストとしてではない。過剰なまでに「読みやすさ」を一方的に断っているようなレイアウト。不思議な存在感を覚えずにはいられない。毎回豪華な書き手陣にびっくりするのだが、この雑誌は(形態学的に)自ら雑誌らしさを断っているようなテクスト群なのではないか。最近、読ませる<雑誌らしきもの>が増えている気がするのは僕だけか。
※参考
試行空間
http://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/