「分解なき主体」はありえたのか

oxyfunk2004-02-08

 ふと目にしたのが始まり始まり。昨日も今日もアイリッシュコーヒー。ブラックにスプーン一杯あまりのリキュールを落とし込んでみる。ほんのりふかーく暖かい。ところでこの飲み物、「コーヒー=眠くなくなる」と「お酒=眠くなる」とを一杯のなかに共存させています。さて効果はいかに。
 「パウル・ツェラン」。昨日のコメントをきっかけにいろいろと思い出した。歴史教科書の「記述」をめぐる問題が「採択」の問題になりつつあった「あの頃」、電車の中で僕は細見和之アイデンティティ/他者性』(岩波書店、1999年)を読んでいた。

 詩は言葉が現れるひとつの姿なのですから、また、したがってその本質からして対話的なものですから、詩はひとつの投壜通信であるのかもしれません。どこかに、どこかの岸に、ひょっとすれば心の岸に打ち寄せられるかもしれないという信念−−必ずしもいつも確かな希望をもってではありませんが−−のもとに、波に委ねられる投壜通信です。詩は、このようなあり方においてもまた、途上にあるのです。つまり詩は何かにむかって進んでいるのです。
 何にむかっているのでしょう。開かれている何か、占有しうる何か、ひょっとすれば語りかけうる「あなた」、語りかけうる現実にむかってです。(pp60-61)

 「書く」という行為がすでに内在させている「あなた」という他者。ツェランの詩=投壜通信はその意味において「あなた」への呼びかけだった。帰属するべく「国家」をもちえなかった彼の詩は「一見誰にも開かれたものでありながら、同時に頑なに封印されたもの」でなくてはならなかった。詩の註を放棄した彼は、「読者が繰り返し作品を読み、その1行、1語、1シラブルに繊細に反応してくれることを、ひたすら待ち望ん」だのだ。すでに昨日の大澤の議論の射程からははみ出ているが、やはり「書く」ことが既に「他者」を埋め込んでいることは明らかだ。
 さて、ここまできて思い浮かぶのは「分解なき主体」はありえたのかという、素朴といえば素朴な問いである。大澤の結論は、フーコーが描いたパノプティコン的な監視が「主体」を産みだしたのは確かであることを認めつつ、「監視が首尾よく機能するのは、それが部分的に失敗している限りにおいてである」ということだった。なるほど、権力に従順な「主体」を生み出すためには「内面」をもたせるための監視の隙間が必要だったのだ。
 ところが、この「権力に従順な主体」は、完全な自己統一体で「分解」していないとはいえない。なぜならパノプティコンの性格上、監視者=「他者」(がいるかもしれない場所)が存在しないという選択肢はありえないからだ。そのゆえに、被監視者はすでに「他者」を取り込んでいる。そこでは監視の隙間があっても(なくても)、「他者」を既に取り込んでいる以上、被監視者の行動は「他者」にむけた「主体の分解」とならざるをえない。この意味において、フーコーが論じた「権力に従順な個体としての身体の主体化」は「分解なき主体」の形成ではなく、主体は「分解」しつつも「権力に従順な個体として」「主体化」していくメカニズムを明らかにしたと言うべきだろう。