「理想的なパノプティコン」の行方

 じんわりと自分の周辺にも染みこんでる<ウェブ日記>。大澤真幸によるマーク・ポスター著(室井尚、吉岡洋訳)『情報様式論』(岩波書店=2001年)の解説を思い出す。
 ミシュル・フーコーベンサムパノプティコンに近代の権力の形態をみたが、マーク・ポスターはコンピュータが可能にするデータベースに「パノプティコンのより完成された姿」をみた。大澤は現在、パノプティコンが「まったく理想的な極限状態において現実化しようとしている」という。現代的な技術としてコンピュータは監視状況を現実に作りだし、「それに対応して、非常に多くの人が、それを受け入れ、監視されることに快楽を覚えてさえいる」というのだ。
 ところが、である。フーコーパノプティコンを取り上げ、権力に従順な個体としての身体の主体化を論じた。ところが「理想」化されたパノプティコンは、フーコーが論じた身体の主体化に帰結したのかというとそうでもない。「理想的なパノプティコンでは、主体を生み出すどころか、主体の反対物をこそ生み出している」のである。完全な監視状況としての権力は、個体の身体における「内面」という深さを析出する能力を失効させてしまい、「主体」に代わる「何」かを生み出す。
 ここで登場するのが<ウェブ日記>。大澤は日記をウェブ公開する人間を、従来の自己内対話的な「内面」をもった人間(=近代的主体)ではなく、ウェブ日記の読者=他者の視線を内在化した人間だとする。「他者の視線のなかで主人公であろうとすれば、人は自らの人生を、その他者の視線のなかで一貫した物語性を有するように編成して、演じたり、記述したりしなくてはならず、そのことは結果として、人生の他の部分から特定の局面のみを切り離して意味づけることになるだろう」。大澤はこれを「人生の分解」とも呼んでいるが、ここにおいて大切なのは徹底したパノプティコン型の監視がその予想とは反対の帰結をもたらしていることである。「理想的なパノプティコン」は「同一性を有する主体ではなく、主体の分解、主体の解離」を呼び込んだのだ。
 この「推論」の結論は、フーコーが描いたパノプティコン的な監視が「主体」を産みだしたのは確かであることを認めつつ、「監視が首尾よく機能するのは、それが部分的に失敗している限りにおいてである」ということだ。ここに、従順な「主体」を生み出すためには「内面」をもたせるための監視の隙間が必要になるという矛盾をみつけることができる。そういえばフーコーが問題にしたのも、監視の現実性ではなく、監視されているかどうかわからないという心の隙間を記述したものではなかったか?
 以上が大澤の解説の要旨である。違和感があるのは、<ウェブ日記>以前の日記(=公開を前提としてない)を他者の視線から自律したものとして想定しているように読めるところだ。はたしてそうなのか?もし、そうなら手書きの日記を親類や遊びにきた友人から見つかりにくい場所に隠してしまう「あの行為」を説明できない。「公開する」と同様に「隠してしまう」にも他者は存在するのではないか。その意味において、日記にはすでに他者が埋め込まれている。それは記述の面でも同様であり、すでに主体は「分解」している。大澤のいう「主体の分解」の例としての<ウェブ日記>以前/以後はやや説得力をかける印象である。
 そういや、「あの人」の日記には、「本」(=位相をずらした他者の視線)を前提した「書き方」をしてしまうかもしれないという「告白」があったな。田中純との一週間メモは、まとめてではなく、過去の日に対応させて追加記入しようかなーと思いつつ。
 
※参考
・あの人
http://d.hatena.ne.jp/blueingreen/
・anotherあの人
http://blog.livedoor.jp/tantot/