歴史のなかの「集合的記憶」

oxyfunk2004-02-06

 コンビニの臭いが好きになれない。それなのにあの明るいサインをみるとどういうわけか引き込まれてしまう。そうそう、近所のファミマが最近「赤い」。女子十二楽房もそうだが、イメージとしての「アジア」が表象される時、不思議なまでにこの色が頻出すると思うのは僕だけか。よく見たら、日本、韓国、台湾、タイときて「上海」となっているところに「?」。路上はつっこみネタで溢れていますナ。
 「集合的記憶」を歴史のなかに判断することの困難性@田中純

□買い物□
・ウィリアム.H.ディヴィス著、赤木昭夫訳『パースの認識論』産業図書、1990年
 記号論ならソシュールだった。「シニフィアンシニフィエ」の2項が対応しあう例のパラダイム。どうやらこれは記号論の大きな二つの流れの一つだったようだ。もう一つの流れにあるパースの記号論は、現実的には一対一で対応していない多義的な記号の「解釈」を問題にし、そこで記号は対象間の関係を「仲介」するという。「人類学的アプローチ」と同じ頃から気になっていたのが「パース」。飲み屋で教えてくれた先輩に感謝。