テレビへの想像力

oxyfunk2004-02-17

 「あなた」だけではない。観ることの快楽が「サブリミナル手法」の対象に転化する恐怖(?)。「マネーの虎」(日本テレビ)の担当プロデューサーは「お金というテーマを表現したかった」とか。幼稚な印象を与えてしまうこのコメントが「放送人」とそれを語る「新聞人」への想像力をさらに幼稚にしてしまわないか。聞くだけでなにか恐怖映画的な印象を与えてしまう「サブリミナル手法」だが、本当にそうなのかというと社会心理学的にはまだ実証されていない。ところで、この件は誰がこれを最初に問題にしたのだろうか。「1秒30コマ中0.2秒間にあたる6コマ」を何処の誰がそんなに「まじめに」観ていたのかについて触れないまま、「サブリミナル手法」を「疑惑」の対象として報道してしまうことは、テレビへの想像力を狭めてしまうことにつながらないか。
 さあ、今晩も「あの二人」が待っているので、はやめにテレビは消しておきましょう。
※参考
・「マネーの虎」にサブリミナル映像?9日放送分から削除
http://www.asahi.com/culture/update/0216/003.html
    

□買い物□

 デザインが人間に働きかける「しぶとい作用」に注目すれば、「ニュートラル」ではないデザインの姿が浮かび上がってくる。デザインは、私が何者でありどのように振る舞うべきかを、「実体のあるかたち」にして語りかけているのだ。それを決定していくのは「内的な遺伝的構造」ではない。「社会的コンテクスト」を重視する本書は、時代におけるデザインの差異を「芸術的気質の違い」に回収しない社会史的考察である。構造主義への参照を宣言するあたりに飛躍を感じるのだが(これも「社会的コンテクスト」なのだろう)、素直に宣言しているところがなんかいい。
    

 中山の書籍は「どこ(出版社)から出してくるのか」がいつも気になる。フーコーの思考変遷を時代順に追うのは『フーコー入門』(ちくま新書、1996年)にまかせ、「狂気」「真理」「権力」「主体」の思考の軸を取り上げたもの。フーコーを「道具」のように使うこと。それはそれでいい。中山はキットラーをどのように読むのだろうか。「なぜいまでもフーコーなのか」を読んでみたい。
    

 多産だなぁ。書斎に籠もる「ブッキッシュ(!)」な生活から街に出て歩き回るようになった海野の視覚文化批判。ポストモダン理論の<身体>記述における「目の文化」の専制と「足の文化」の不在の指摘にはふむふむ。また「眼差し」に偏重したカルチュラル・スタディーズに「なんで歩かないの?」と突っ込む海野のつっこみはそんなに外れていないと思う。論理構成は雑だが、読み物としては面白い。