「国際化」のアナロジー

oxyfunk2004-02-16

 「あなた」だけではない。観られることの快楽から「ぱくり探し」の対象に転化する恐怖。「愛知万博」PRポスターの制作者は何を思っているだろうか。「指摘」の妥当性が問題なんじゃない。図像だって引用され異化されていくのだ。だから「オリジナル/コピー」といった安易な2分法的思考に回収されてはならない。歴史から自律した「オリジナル」はありえないんだし。にしても、イメージとしての「万博」が40年前の「オリンピック」とほとんど変わっていないことに驚く。「グローバル化」しつつある現在を未だ「国際化」のアナロジーでしか描けていない現代デザインには思想的課題があるのではないか。
※参考
愛知万博デザイン、ロックウェル作品と「そっくり」の声
http://www.asahi.com/national/update/0216/010.html


□買い物□
数土直紀、『理解できない他者と理解されない自己』、頸草書房、2001年
 「他者と共に生きる」ための理論的考察。「自己を否定することなく、他者を受け入れていくための条件」を探る数土は、日常における他者との相互理解を「擬制」と診断する。他者が存在するところで「適切に社会的決定」をするのは「困難」だとする数土は、他者と共生するために「決定不可能性を積極的に受容する」必要を主張していく。それが「新しい」相互理解としての「理解できない/理解されない」の関係性だとか。他者との関わり方を「採るべき行動を明らかにする戦略」として論を進める語感にちょっと「?」。
 それにしてもこのタイトル(特に背表紙)は、『話を聞かない男、地図が読めない女』(主婦の友社、2000年)、『ひ弱な男とフワフワした女の国日本』(草思社、1997年)、『金持ち父さん、貧乏父さん』(筑摩書房、2000年)とかの書店入口に平積みされている「一連の書籍」の親戚のように見えるのは僕だけか^^。


佐伯胖編、『理解とは何か』、認知科学選書(4)、東京大学出版会、1985年
 「理解」を行動、知覚、記憶、測定に還元するのを回避しつつ、「理解は理解」として扱っていくもの。村上陽一郎は「理解の文脈依存性」を、銀林浩は「算数・数学における理解」を、三宅なほみはミシンがどのようにして布を縫い合わせることができるのかをめぐる議論を例に「理解におけるインターラクション」を、マイケル・コールは人間が外界を操作するためにメディアを歴史的に発明してきていることを「リテラシーの文化的起源」で、佐伯胖認知科学史のなかに「「理解」はどう研究されてきたか」を位置づけていく。本書は昭和58年に東京大学教育学部でのシンポジウム「理解とは何か」を再録したものである。「理解」そのものは学際的な問いであるにも関わらず、「理解研究」がなぜ認知科学領域で重点的になされてきたのかがようやく見えてきそうだ。