「遂行的矛盾」を探る

 時の言葉といえば「吉野家」も。昨年末までの局所的な「祭り」騒ぎを起こしていた頃から急転回。ゆでたまごキン肉マン』の主人公が唱い踊る吉野家の「牛丼一筋300年(?)♪安いぞ、旨いぞ、でっかいぞ♪」は歴史的描写になるか。にしても、牛丼は「国民食」なのかという友人の問いには賛成。
 テレビ朝日「心の中の国境〜無国籍投手スタルヒンの栄光と挫折」をまったりと観賞。次の展開を「先読み」する眼差しがいかにも「プロジェクトX」的だった自分にびっくり。テレビにしっかり飼い慣らされているなーと思っていたら、エンディングで徳光が「やっぱり」巨人の優勝を祈っていたのでちとニヤリ。登場人物の「お約束」もしっかり覚えていたみたい。
□貰い物□
※先輩から大量に頂きましたので少しずつ紹介。
・テリー・イーグルトン著、大橋洋一訳、『イデオロギーとは何か』、平凡社、1999年
 「適度な合理的性格」を備えた人間がどのようにして自分自身の不幸に身を投じてしまうのかという「遂行的矛盾」を探るもの。イーグルトンは、主体と権力の間に「生きられた関係をこしらえ、日常生活そのものをひそかに意味づけてしまう」イデオロギーを「言語」の問題ではなく「ディスクール」の問題として、その「虚偽性」に焦点を当てていく。その「虚偽性」は「認識に関するものか、機能的なものか、発生にかかわるものか、はたまた3者を組み合わせたものか」と問いを進めていくイーグルトンが明らかにするのは、「発言とその発言を成り立たせた物質的条件(=権力闘争)との関係にまつわる何か」であるのだが、その「何か」とは何か。「自己と社会への批判」であり、「自己と社会への開放」と記した大橋の解説は示唆的である。「たとえ主体が抑圧に屈しているとしても、いまもなお主体は、物質的条件が変われば現実に実現するであろう希望なり欲望なりを捨てずいる」と信じるイーグルトンは、「ひとを死へとみちびく欺瞞的信念からの解放」を目指すためにイデオロギー理論の居場所を探る。「超越的な」視点からの「批評 criticism(=ポストモダン思想)」ではなく、「主体の経験にもぐり」こみつつ「主体の現在の状況をこえたところにある「有意義」な経験」を引き出す「批評 critique」を目指したと宣言したものの、本書そのものもイデオロギーの危うさと誘惑、「限界と開放性」(大橋)の間を漂っているともいえるだろう。