「遂行的矛盾」探し魔を越えて

 「思想的理由」なんかじゃない。きっかけはたまたまなのである。「肉を食べないことを選択する」ことは、そんな大袈裟なことではないのだ。たしかにその選択を「ベジタリアン」と自ら呼ぶ人もいる。しかし、「肉を食べないことを選択する」は「ベジタリアン」であることを意味しない。
 行為を呼称で説明することは避けられないものか。呼称はありうべく多様な行為に解放されているゆえに、呼称が包含する行為は常に更新される。呼称は個人的な行為を集合的に語る暫定的な言葉なのだ。だからそれは常に限界を孕んでいる。
 にも関わらず、呼称の「遂行的矛盾」を観察し指摘する輩は少なくない。「ベジタリアン」に対してなら、「野菜を食べることだって自然の生命を殺していることにならないか」に始まり「君の靴は牛革製ではないか」や「君は現在の資本制を否定するのか」(笑)まで。もう、うんざりするものばかりだ。
 彼らは「肉を食べないことを選択する」という行為に対して指摘しているのではない。「ベジタリアン」という呼称が孕むイメージに対して指摘をしているのだ。これは彼らだけの問題ではない。こうした指摘を誘発してしまう「ラディカル」な「ベジタリアン」が存在するがゆえの、一種の<馴れ合い>なのだ。そうした「ラディカリスト」は、そうでもない人(「ベジタリアン」≠「肉を食べないことを選択する」)への想像力を狭めてしまっていることに気付いてほしい。そうでないと、うんざりするような「遂行的矛盾」探し魔のどうしようもない眼差しを放任することになる。
 「ベジタリアン」は「肉を食べないことを選択する」かもしれない。しかし「肉を食べないことを選択する」人が「ベジタリアン」であるといえないのだ。呼称への参加/不参加が、行為への想像力を狭めてはならない。
※参考
・試行空間:「ジェンダーフリー」ってなによ。
http://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/20040220