鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』講談社現代新書、2005年

 ユニクロ化したブックカバーになってから初めて購入した現代新書。うーん、やっぱりフォントの選択と扱い方が凡庸なんだと思う。背表紙の白抜きは特に厳しい…。本の中身が何であれ、ブックカバーが何色であれ、文字を「文字」たらしめるフォントの現前性は侮れない。
 鈴木さんの文章は初めてだったが、さっくり読了。彼がどういう人達とつきあっているのかがマッピングされているような内容だった。要するに、「私」を成立させる欲望の準拠点が他者から「データベース」に移行しており、自己を支える在り方が「反省」による統一的行為から「カーニヴァル」的な分裂行為になりつつあるということだろう。「ネタになりうる形式が存在すれば、どのような内容を持っているも構わない」とする「ネタ的コミュニケーション」や「ネタ消費」の議論についても、基本的に同意である。
 鈴木さんが「カーニヴァル化」という言葉を採用する理由の一つに科学論周辺で言われている「再魔術化」の議論がある。これはウェーバーが近代にみた「脱魔術化」に対応させて、「非合理なものを徹底的に合理的に自己の生活の中に組み込もうとする動き」が「合理化させた魔術の社会」として登場しつつあるということである。これはこれで面白い議論だと思うのだが、これが「近代の駆動原理の大きな転換」なのかどうかが疑問である。
 広告制作者がなぜ「感性」や「センス」を素朴に語るのかという謎の起源を、近代から続く彼らの形式主義的アイデンティフィケーションに求める僕にとって、「カーニヴァル」もまた近代であまり大きな声で語られてこなかった形式主義の一つなのではないのかと思うのである。だから「カーニヴァル」は「大きな転換」というよりは、それが社会的に拡大したということなのではないだろうか。僕にとって本書は『カーニヴァル化する社会』ではなく『社会化したカーニヴァル』なのかもしれません。

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)