「論文作法」

oxyfunk2004-03-10

 青い上海が街にやってきた。誰にでも予想できた色ではあるけれど。青系のコンビニといえばローソンだが、それは柔らかい水色である。コンビニの色を想像してみよう。どこも原色系を前面にはだしていない。がゆえか、今回のファミリーマートの青はとても目立つ。残るはタイ。緑に一票。
 「あの人」が薦めるウンベルト・エコ『論文作法』(谷口勇・訳、而立書房)といきたいところだが、まずは予告した『ユリイカ』(2004年3月号)の「論文作法」特集を。なんど見てもこの表紙はかつての「別冊宝島」でござるな。
※参考
・あの人
http://blog.livedoor.jp/tantot/

 カルチュラル・スタディーズが「情報量で勝負」しているとは思えないが、読み始めた途端に見えてくる結論としての「〜は近代においてつくられた」にしばしば出会うのは事実だ。ものの見方が目的化してしまうことで、ある種の「退屈さ」を生みだしている面はあるだろう。
 カルチュラル・スタディーズの面白さと難しさは、「アナロジーの論理によって事実をつなげていく」ことにどれほど自覚的たりえるかというところにある。それなりの覚悟なしに「実証」では語り得ない事柄は語れない。それでも「実証」できることは「実証」する努力をすべきだという石原の主張は真摯な意見として受け止めるべきだろう。
 

 「書き手」は他者との関係性を示さずにはいられない。書くことが他者との接続を提示すると同時に、書くことが他者による接続を望んでいることも提示すること。他者への「儀礼的無関心」を偽装しつつ、他者による「ネタ化」を欲望すること。引用/リンクは「きわめてスリリングなコミュニケーションの実践」であり、「それはある種の美意識を生む」という指摘にふむふむ。大澤真幸による解説(マーク・ポスター『情報様式論』、岩波書店)へのコメントでも書いたけれど、「書く」という行為にはすでに他者が埋め込まれている。がゆえに、他者を放っておけないんでしょうね。
 

  • 長谷川一「棲みつくことと旅すること 「論文」空間をめぐるメディア論」

 境界線なきコミュニティはそれとして同定できない。それでも、その引かれ方、維持のされ方に問題意識を持つ長谷川は「出版の知に対する影響力は弱いというより曖昧である」という。出版の商業化は問題にされても、研究者における知の制度化は問われないこと。それは「マテリアルな編制がすっかり変容したあとも、言説を枠づけるモードはそれ以前の型を引きずりつづける」ことだ。「知識人」であることをやめ「専門家」を装おう研究者への批判は痛烈である。
 それでもあえて気になった点を述べておこう。大学出版会側から知の制度化を問題にしているためか、知のフィールドを転々としながら記述している印象が拭えない。もうすこしフィールドを焦点化する方向はありえなかったのか。それによってより内在的に知の制度化を問題にできるのではないか。メディア論はこのような横断性を常に孕んでいる。横断性に注目するがゆえにみえなくなってしまう<それぞれの事情>がきっとあるのではないか。自己言及的システム論の話は面白いけれど、ちょっと突然な感じ。
 

  • 佐藤泉「<カルスタ>の自己記憶・自己忘却」

 石原千秋も言及したように、どうも<カルスタ>は「最後に「国民国家」の帽子をかぶせてまとめ」てしまうものが多い。その必要性を充分に認識しつつも、あえて「金太郎飴」化したと佐藤が呼ぶ<カルスタ>。それは「いまや世間は批判精神旺盛なCS的研究者をとり残して、さらに遠くまでCS的」であるかもしれない。リアリティがその一貫性を保つために必要な欠如としての「構成的欠如」の指摘、郊外化と平行して駅売店に雑誌が揃いだしたという記述あたりは、どこまで「実証的」かはわからないが面白い。
 

 関連雑誌が多すぎるがゆえの悩みはある。愛が溢れてすぎていて、ちょっと手をつけられないというか、なんというか。妙に排他的な愛とかあるし・・・。対象への距離感なき音楽論の「病理」は、その他の領域にも通じるところがあるだろう。対象への愛は必要だ。しかし論文において、その愛はこっそりしまってあるぐらいが気持ちいい。
 「ロックは語れない」とする渋谷陽一ですが、佐々木敦野田努は「電子音楽は語れない」と言うのでしょうか。「形式主義」も「印象主義」といった内輪ネタ系とは異なるポピュラー音楽論が読みたいナ。