「番組の本質」といわれてもねぇ

 テレビ東京系でセサミストリートローカライズされる。NHKは「日本語による新番組への切り替え」を断る理由として「視聴者に親しまれてきた番組だけに、原作を変えての放送は番組の本質にかかわる」としたようだ。いやいや、これはないでしょう。
 セサミ・ストリート研究30年をまとめた『"G" IS FOR GROWING』を読めばすぐにわかることだが、世界各地に寄生するセサミは、早くからローカライズされ、地域限定のキャラを生みだしている。言語も例外じゃない。そもそも「セサミストリート」は未就学児の識字訓練のためにはじまったのである。にもかかわらず、「英語」のままで放送してきたことが奇妙ではないか。
 幼児教育のアメリカナイゼーションを受け入れろというんじゃない。「原作を変えての放送は番組の本質にかかわる」という説明が怪しいんじゃないかといいたいだけである。「おかあさんといっしょ」との共存という選択肢はなかったのか。そこにふれないままの説明は不思議でしょうがない。
 ところで最近、エルモもどきを交通広告で見る。あれ、きっと間違えちゃったんだと思うんだけど、どうなんでしょ。
※参考
・セサミ・ストリート研究30年"G" IS FOR GROWINGを読もう!
http://www.ina-lab.net/special/sesame/
・英語版「セサミ」、33年で幕 NHKが吹き替え案断る
http://www.asahi.com/culture/update/0309/001.html

  • 内田義彦『社会認識の歩み』、岩波書店、1971年

 「管理の学問」に回収されない学問の居場所を探るもの。「学問をあまりにも手段化する思想は、人間を手段化する思想と結びつ」くとする内田は、「社会科学の歴史上の遺産を、現代に生きるわれわれが、一人一人、社会を認識してゆく方法を模索してゆく作業のなかで、どう生かしてゆけばいいか」を考える。「学問の有効性」とは誰にとってのそれか。なるほど、確かに「学問をどうやって進めてゆくという手続きの全体のなかにこそ、学問の理念は生きている」。それでも自分が所属する組織のことを思うと、かなーり複雑な気持ちになってみたり。