君は僕に認めてもらおうとしている

 「君は僕に認めてもらおうとしている」。先輩に怒られた時にこういわれて、かなりムカついたのを覚えている。ところが後になってみたら、この気持ちが自分を苦しめてしまっていることがわかった。これは自己の弱さを他者において解決しようとするものであり、その他者が知らんぷりをすればするほど、自己の弱さが他者において拡大することになる。「なぜあの人は私を認めてくれないのだ」と。「認めてもらおう」とすればするほど自己に跳ね返ってしまうことや、自己の弱さは自己でなんとか引き受けていかないと変わっていけないこと。1年前、そんな当たり前なことに気がついた。
 数土直紀『自由という服従』(光文社新書、2005年)はさっくり読めた。第5章「一人前になる、という服従:建築労働者の場合」は面白いのだが、次の点には疑問を感じた。引用している岸政彦「建築労働者になる:正統的周辺参加とラベリング」の根底にあるはずの実践の共同体論(Community of practice)における主体形成の話には全く触れないまま、数土は学習に媒介された共同体におけるメンバーの参加過程を「従属」や「臣下」にしてしまっている点だ。こういう見方もあるとは思うが、それにしても社会学的単純化とも思えなくもない。
 確かにこうした捉え方は、一つの共同体において自由な主体になることが逆説的に不自由な主体になってしまっているようにも見えるところもある。しかしながら、数土が言及していない実践の共同体論は、その提案者であるLave & Wengerによって、主体が形成される共同体が一つに限らないことが指摘されている。「学習主体は複数の実践共同体に同時に参加しており、一つの実践共同体への参加の在り方の変化とその変化も重層的である」(佐伯胖訳『状況に埋め込まれた学習』産業図書、pp.113-114.)。つまり、建築労働者のアイデンティティ形成を建築労働者の共同体だけで捉えようとする場合、かなりの限定がかかっていることとして考えなくてはならないのだ。
 ところが巻末の参考文献には当該書が挙げられていない。多分これは、学習に焦点を当てた共同体論を社会学的に読んだ時のズレなのではないかとも思う。内部の論理と外部からの観察にはズレが生じることはあるに違いないし、外部からの記述の可能性も認められるべきなのだが、これに限っては共同体における主体形成の捉え方がやや単純であると言わざるをえない。自由になろうとすることが不自由さを召還してしまうという数土の「直感」には共感するところがある。しかし、それを成立させてしまう共同体をいかに記述するのかという点において、建築労働者の(実証的?)事例には認識の飛躍を感じてしまった。
 とはいえ、第6章の「自由だと、つらいですか?」には納得。確かに私たちは「自由」であるがゆえに「息苦しさ」を感じることがある。他者を目の前にしながらも「みえない他者」を想定してしつづけてしまうこと。その他者に対して配慮し続けながらも、その他者が「みえない」ために、自分が適切な振舞いをしているのかどうかを問い続けなくてはならないこと。終わりなき配慮や、それによる「私を受け入れてくれるのだろうか?」という不安、「私のことをわかってくれない!」という怒り。それらは「自由」である限りなくならない。結局のところは、自己における他者といかに向き合うのかなのだ。
 当時、先輩の言葉にはかなりムカついていた。しかしながら、あたっていたとも思う。それは先輩を前にして、もう一人の先輩を想定しながら必死に受け入れてもらおうとする僕への反応だったのだ。自分を「認めてくれる」都合のよい他者を想定することによって、かえって自分を苦しめてしまうこともあるのが「自由」なのだろう。ゆえに個人に還元することのできない「弱さ」や「責任」を、どういった単位で引き受けていくのかが問題になっているのかなと思った。
 ▼再起動。仲間、先生、家族に感謝。悔いのない1年にしよう。

自由という服従 (光文社新書)

自由という服従 (光文社新書)