中立・公平は、もういい。

oxyfunk2005-01-18

 「中立・公平」は、それに反していると思われることが主張される度に、その響きを延命させているところがあるのではないか。みんなにとっての「中立・公平」なんて不可能であるにもかかわらず、どこかの誰かになんだかしらの不利益がある度に、それをあえていってしまうこと。これをいってもどうにもならないのに、これを言ってしまえることが現在の状況なのかもしれない。「中立・公平」の恣意的な解釈はここに滑りこんでしまうのだろう。だから誰でも「中立・公平」をいっている限り、どこか「まともなこと」を主張しているようにも思えてしまう。
 NHKの抗議はともかく、安倍晋三の「中立・公平」に関するコメントを、ほとんどそのまま代弁してしまった昨夜のNHKニュースにはかなり問題があると思う。それをするなら反対の立場の者にも同じ時間を与えるべきだった。しかし、そこに放送の「中立・公平」の不履行を訴えても、それは「中立・公平」論争に巻き込まれるだけのことだろう。
 メディアの難しさを「中立・公平」という便利な言葉で言いくるめるのは、そろそろ止めたほうがいいんじゃないか。放送法に書いてあるからというだけでは理由にはならない。「中立・公平」と言ってしまうことで、かえって問題に蓋をしてしまうことがあるのだ。ならば、とりあえずはそう言わないことによって問題に蓋をしないようにするしかないのではないか。それで問題がすぐに浮かび上がるとは思わないが、過剰に裏返しにされる言葉はその使用を控えることによってしか、その裏返しを無効にすることはできないと思う。
 とはいえ、どんな言葉になっても「殺し文句」や便利な言葉はなくならない。だからこそ、何と言われようとも、耳を澄ましてみるしかないのだろう。

 
※参考
NHK 朝日新聞記事に再抗議
http://www3.nhk.or.jp/news/2005/01/19/d20050118000149.html