デザインの「言葉」。

oxyfunk2005-01-08

 デザインについての出版物は多い。作品集や作家論、技術論に規範論。その量の大小や種類の幅は異なっても、街の書店のデザイン棚にはこうしたものが殆どだろう。この場合、デザイナーは「制作者」として僕たちの前にいるともいえるだろう。
 そうしたデザイナーが「発言者」である時も少なくない。オリンピックや博覧会、公共施設や文化事業など、大きなプロジェクトに関わったとき、デザイナーは「デザイナーならでは」の語りを求められたりすることも少なくないのだ。
 デザインを「言葉」で考えていくとする時にしばしば誤解されてしまうのが、この「発言者」としてのデザイナーの「言葉」に焦点を当てていると思われることである。それはそれで大事なのだが、それだけがデザインの「言葉」ではない。それらは自らがデザイナーであることを前提にして、彼らがそこから見えることを外部に向かって語っているのでしかないのだから。つまりその「言葉」だけを拾っても、デザイナーが自ら感じている面白さや難しさはなかなか浮かびあがってこないのである。
 それらを一言でいえば、「デザインから社会を語る」である。語られているのは、「デザイン」ではなくて「社会」なのだ。しかし、それはデザイナーが「社会」を語りたがっているというだけでもない。亀倉雄策田中一光原研哉佐藤卓などそれぞれに素晴らしい「制作者」を前にして、なぜか私たちは「デザイン」ではなくて「社会」を彼らに語ってもらうことを求めてしまってきている面もあるのだ。「デザインの話はよくわからないから…」なんて素朴な印象が、デザイナーの「言葉」を枠づけているともいえるだろう。
 これはこれで必要なことでもある。しかしこれだけだと、ある意味では「超有名な」デザイナーの「言葉」しか僕たちには届いてこないということにもなる。しかも、語られるのは「社会」であって「デザイン」ではない。「デザイナーにおいての」話ではなく「デザイナーからみた」話しか聞くことができないのだ。(それだけで十分なんだから!という意見もありうるが…)
 とはいえ、出版物というある意味ではプリミティブな領域にいるデザイナーが「社会」ではなく「デザイン」そのものを語っているのは興味深い。広告やプロダクトのデザイナーが対他的に「教科書」化してしまうデザインの「言葉」を、出版物のデザイナーは「デザイナーにおいて」じっくりと対自的に問題にしているように思えることは少なくない。デザインの「言葉」から、デザイナーが自ら感じている面白さや難しさを知るためには、この後者のような対自的な語りがどうしても必要になる。
 デザイナーを「なんかよくわからないけれどもなんかすごい人」だけにしないためには、デザイナーが積極的に「デザイン」について語っていくと同時に、僕たちがデザイナーに「デザイン」についてもう少し聞いてみるという、「社会」だけではなく「デザイン」に焦点をあてた言語空間の設定のようなものが必要なのだろう。(デザイン・リテラシーの向上はここに着地するのだろうか?)
 自分の領域から「社会」を語ってみたくなる欲望と、他者の領域から「社会」について聞いてみたくなる欲望とは、どうも仲が良さそうだ。それが自分の領域や他者の領域をそのまま不問にしておくための処世術のようにも思える。「社会」について語ることが、それを語る主体の根本的な問題を先送りしてしまうことも少ないないだろう。
 その意味で鈴木一誌『ページと力:手わざ、そしてデジタル・デザイン』(青土社、2002年)は、デザイン→社会論ではなく、デザイン業界論でもなく、技術的でマニアックなデザイン論でもなく、デザイナーを含む社会にとって「デザイン」そのものとは何なのかを知るために読まれてもよいはずだ(社会→デザイン論)。「デザインから社会を語る」だけでなく、「社会からデザインを語る」がもっとあってもいい。
 東大明朝をめぐる「文字コード」と多様性をめぐる問題について書こうと思ったけれども、それはまた今後。

ページと力―手わざ、そしてデジタル・デザイン

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