記憶の「選択」をめぐって

oxyfunk2004-02-03

【予告】
・騙されたと思って飲んでみてほしい「ミルクチャイ」。きっと騙されるから。
・都市における記憶の政治について。歴史的想像力を「選択」することの矛盾。(ホロコーストとWTC)@田中純

□買い物□
森達也放送禁止歌』光文社、2003年
 高校時代、隣のクラスに「おむすび君」という人がいた。当時の言葉で「オタク」と呼ばれかねない雰囲気を持った彼。そんな「おむすび君」が学園祭で毎年演奏する唄が「じーえたいにはいろー♪はいろー♪はいろ〜♪」だった。この脱力感溢れるフォークソングに再会したのは、およそ8年後のこと。森が撮ったこのドキュメンタリーを仲間と一緒に観た時だった。『放送禁止歌』はいわゆる「メディア批判」と呼べてしまえるほど安っぽいものではない。メディアを問題にしながら「メディア批判」を避けること。本書はメディアと生きる人間みんなに向けた優しくて悲しい愛の記述である。「目を背けないこと」の難しさはココにもある。

・ハル・フォスター編、室井尚、吉岡洋訳『反美学』頸草書房、1987年
 「ポストモダニズム」、それは本当に存在するのか?「批評」は「再現=表象」という近代の秩序から抜け出すことはできない。それでも、にも関わらず、「再現=表象」の秩序を「再登録するために脱構築していく批判の旗印」としての「反美学」。やっと手にいれたよ。

・J.ジョル著、河合秀和訳『グラムシ岩波書店、1978年
 使いこなせていない言葉は無数にあるが、そのなかでも便利だなと思うのが「ヘゲモニー」。グラムシは頻繁に参照されるにも関わらず、具体的なイメージをつかめずにいた。入門書から初めてみよう。

滝浦静雄『言語と身体』岩波書店、1978年
 響き的には尼ヶ崎彬『ことばと身体』を連想させる本書は、「20世紀における現象学の展開の筋道を明らかにし分析哲学の隠れた側面を発掘」しつつ、この二つの思想の「架橋」を試みるもの。

・「特集=<消費社会>の解読」『現代思想青土社、1982年5月号
 広告を過剰なまでに「まじめに」語り始めた時代。イメージの氾濫に巻き込まれた言葉の迷走にとまどいを覚えつつ、今だからこそ読みたくなる不思議な特集。後藤和彦「消費の共和国」はブーアスティンの広告論、テレビ研究で頻繁に参照されるフィスクとハートレイの「テレビを読む」(オーディエンスの章)も。この時点では大橋洋一の訳。消費欲求の構造を解読するために「言語学」のフレームを用いた上野千鶴子の奇妙なまでに「まじめな」論文「商品−差異化の悪夢」も。

・キーワードクラシック編集部『クラシックの快楽』洋泉社、1988年
 音が自分のものになる瞬間がある。演奏ができるとかいうんじゃない。それなりの訓練をすることで言葉に敏感になることができるように、音にも敏感になれるのだ。その意味において僕はクラシックには鈍感である。聞くだけが音じゃない。音は語られもする。「教養のためでも、BGMがわりでもない、自分自身のクラシックを発見」するためのガイドブック。「クラシックの場所(トポス)」の章、名前のわりには構成が錯綜している印象も有り。ま、いいか。