目を閉じて聞きたいベンヤミン

 今日から駒場で集中講義。(田中純の語るベンヤミンと河野書店について書くつもり)

□買い物□
・佐藤康邦、安彦一恵編『風景の哲学』ナカニシヤ出版、2002年
 <風景>を扱う連続講演会がパルテノン多摩であるから行こうかなと思っていたら。佐藤健二『風景の生産・風景の開放』(講談社)もまだ読んでないのに。当たり前といえば当たり前な<風景>を空間における視線−身体−言葉の関係で捉え「哲学」的に考えるもの。問題意識はわかるが、「哲学」的にというところがちょっと照れますナ。

ハーバーマスデリダ、ボッラドリ著、藤本一勇、澤里岳史訳『テロルの時代と哲学の使命』岩波書店、2004年
 忘れはしない。「あの日」の「あの瞬間」、僕はラジオを聞いていた。2機目の「瞬間」に立ち会わせていたんだと主張したいんじゃない。耳が熱くなった。その感覚が忘れられないのだ。あれから2年半弱、じんわりと日常に染みこんでくる<テロル>への想像力。「あの日」を新しい出来事としない、歴史的想像力のための「哲学」。「言葉」の可能性を信じるために。
 
アンリ・ルフェーブル著、多田道太郎訳『美学入門』理論社、1955年
 「内容」と「形式」という2分法が頭から離れない。戦略的に、事象を説明するための操作的な言葉として捉えているが、とても便利に感じてならない。マクルーハン的メディア論を受け入れる土壌は1920年代からあったのではないか。「人間を解放する芸術」を目指した人間が「社会主義的リアリズム」というイデオロギーに回収されたという逆説。歴史のなかの「形式主義者」に想いをめぐらしてみたい。