「郊外」の博物館

 闇が光を静かに閉じようとしていた。そんなに大袈裟なものではないが、多摩センターから北へ丘陵と平野を縦断する車両からの日没は一見に値する。それだけじゃない。団地、住宅、公園、幹線道路、ファミレス、大学、遊園地、動物園、河川、高速道路、デパート、飛行場跡、鉄塔線。「多摩モノレール」からの眺めは「郊外」の博物館そのものだ。原風景なき原風景。それこそ僕の記憶であり、故郷である。今度、ビデオに撮っておこ。
 吉見俊哉『カルチュラル・ターン、文化の政治学へ』(人文書院、2003年)を斜め読み。「あらゆる解釈の歴史は誤読の歴史であり、あらゆる思想の創造的継承は奪用の歴史である」(p129)。思想・テクスト・マテリアルなどに対し、何らか一つの正統性だけが存在するということはない。「読み」は開放されている。早朝に電話をくれた「あの人」の報告がうまくいきますように。

※参考※
多摩モノレール
http://www.tama-monorail.co.jp/
・鉄塔調査隊
http://www.actcine.com/tetto/

□買い物□
仲正昌樹『歴史と正義』御茶の水書房、2004年
 癖のあるあとがきは毎度のこと。「歴史の目的」が色あせつつある今、普遍的な「正義」を正統化できるだけの「物語」は成立しない。「史的構想力の回復」を目指す啓蒙書。

太田好信民族誌的近代への介入』人文書院、2001年
 「文化を語る権利は誰にあるのか」(副題)に惹かれた。昨年辺りから身近でよく聞くようになった「人類学的研究手法」。メディア論だけでなく学習論との関わりでも参考になりそう。
 
・有山輝雄『甲子園野球と日本人』吉川弘文館、1997年
 やっぱり出てきたブーアスティンの「疑似イベント」論。あるメディアが「空前」の出来事としてして伝えることによって初めて、その出来事は「空前」化し、「疑似イベント」として成立する。「甲子園」という出来事も例外ではない。無邪気に「日本一」を目指して、応援にいった高校時代。スポーツの歴史社会的意味を問う研究は面白い。「箱根駅伝と<大学>」とかいう研究があったら読みたいな。
 
・小野良平『公園の誕生』吉川弘文館、2003年
 当たり前の空間が当たり前でなくなる。本書の対象は都市における「公園」。娯楽の場のようでありつつ、近代を生きる人間を律する場として機能してきたのかもしれない。百貨店、遊園地などの流れで読んでみたい。<園>はいつか取り上げたいテーマ。