「冷め」の文体

oxyfunk2004-02-13

 目を向けたくないもの。積み上げられた未読の新聞。読みたくないんじゃない。読むタイミングがなかなか掴めないのだ。「あの山」に夕刊を積み重ねる前に見つけたマイム集団「水と油」の記事(朝日新聞2004年2月13日夕刊6面、オフ・ステージ欄)にふむふむ。
 「セリフのないマイムの舞台は隙間だらけだ。それは観る人の記憶から生まれる想像によって埋められていく」。鑑賞者の「記憶」が介入できる「隙間」を用意しておくこと。「記憶」に開かれた「舞台」は、鑑賞者による解釈=物語の居場所を与える。「舞台」から紡ぎ出される物語は多様なのだという演じ手の認識。当たり前といえば当たり前かもしれない。それでも「隙間」を鑑賞者に自覚的に預けている姿勢に希望を感じた。

綿矢りさ蹴りたい背中
 なるほど、こちらも「冷めて」いる。「男」を飼い慣らす「女」。綿矢にも金原にもそれに通底する姿勢は共通している・・・なんてコメントに回収されてはならない^^。綿矢の「冷め」と金原の「醒め」は随分と異なる印象を持つ。ふむ、しかしこれは相対的な感想にすぎない。
 『蹴りたい背中』に「高校における異物排除のメカニズム」(池澤夏樹)を読みとるのはあまりにも愚直ではないか。綿矢は「メカニズム」なんて大袈裟なものではなく、「余り者」の自意識を描いているだけなのだ。「オリチャン」を観察する「にな川」と、「にな川」を観察する「ハツ」。<対象へのねじれた愛>を共有しつつも、二人の観察者の姿勢は大きく異なる。「オリチャンから与えられるオリチャンの情報」に夢中の「にな川」とそうした彼に冷めている「ハツ」。「にな川」と「ハツ」の自意識の違いはここに決定的に表れている。だから「ハツ」は「にな川」を蹴れても、「にな川」は「オリチャン」を蹴れないのだ。