<希望>のメディア

 見ていないんじゃない。シンポジウム、研究会、講演会でスクリーンに映し出される発表資料。もちろん耳では追いかけている。それでも資料のどの部分と対応しているのかがわからないことは多い。よーく目を凝らしてみよう。小さな小さな「赤いポッチ」がスクリーンをものすごい勢いで泳いでいる。あれについていくの大変だよなぁ。なかなか見つからないし。発表者が思っている程「聴衆」はみていない。なんかいい方法ないですかネ。
 「注意書」を再読。イメチェン →前よりも読みやすくなったので「一票」です。2つの「政治の美学化」が「技術なるものへの」同一の「誤解」から生じたものであり、それらが「アウラ/反アウラ=技術」図式を「人間学的な観点から」受容することによって「見失」なっていたかもしれない「芸術の美学化(政治化?)」の「可能性」。テクノロジーへの「耐えがたい不気味さ」が生み出した「アウラの喪失」という「出来事」。「アウラを実体視」した「政治の美学化」への危機意識から対置されていく「芸術の政治化」。「映画」はその開放の「契機」だったということにふむふむ。
 「芸術の美学化」と「芸術の政治化」の違いがよくわからなかったのでこれはレス待ち。それでも20世紀初頭における映画の居場所がみえてきた。「耐えがたい不気味さ」を備えたテクノロジーは、<希望>のメディア=映画をも産みだしたのだろう。「ブルジョア的」な論理や「政治の美学化」に回収されない「世界の切り取り方」。それでも、ベンヤミンが示した選択(「芸術の政治化」)は「物質が人間といかにして共演するかを示すことができる、史上はじめての芸術手段」にマッサージされた/でマッサージしていく人間にとっては難しいものだったかもしれないなー。zzz...
※参考
・注意書
http://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/20040210