前川修『痕跡の光学 ヴァルター・ベンヤミンの「視覚的無意識」について』、晃洋書房、2004年

 いわゆる博論本には「誰が買うのだろうのか」という素朴な疑問をもちかねない値段設定が多い。きっと僕みたいな貧乏学生は博論本のマーケティングターゲットには含まれていないんだろう。値段だけで判断すれば、より広範に「読まれること」よりも図書館に「置かれること」を目的としているように思えるものが多い。学術界での位置づけを優先する高価な博論本出版、そこでは「読者」は遙か彼方に追いやられている。とはいえ、それでも昼御飯を抜いて購入(涙)。関心のある本には、支援の意味も含めてお金を払いたいものです。
 なるほど、僕等は「なぜベンヤミンはこれほどまでに受容されうるのか、あるいは受容されなければならないのか」を考えなくてはならない。ベンヤミンの歴史哲学を引き受けるのなら、その対象にベンヤミンの思考自身も含まれてよいのである。ベンヤミンという「痕跡に痕跡を重ね書きする」ための回路は、彼自身によって未来に開かれていたはずなのだ。にも関わらず、ベンヤミンの歴史哲学を参照しつつも、それが含意していた方法としての「想起」を無意識に放棄したメディア論は少なくない。その意味において本書は、ベンヤミンが「複製芸術論」で知られる面を持ったこと自体が、皮肉にも彼自身が「複製芸術」の対象となってしまったことを示していく。それはベンヤミンの書いたメディア論のためのメディア論、すなわちメタ・メディア論ともいえるだろう。