*[critique]アマルティア・センに学ぶ

 アナン国連事務総長名誉博士号を記念した講演会が開かれる。昨年は金大中元韓国大統領(名誉博士号とは関係のない講演会)だったが、ノーベル平和賞受賞者の講演は滅多に聞くことができないので、こういう機会は逃さないようにしている。東京大学の「名誉博士」にどれほどの価値があるのかは知らないが、これを最初に授与されたアマルティア・セン(経済学/倫理学)は、領域が異なっていても、僕自身にとって学問への扉を開いてくれた学者の一人である。
 
 センの名誉博士号を記念した講演を改めて読んでみた。それは、アメリカの同時多発テロの衝撃から「新しい戦争」が「文明の衝突」論を支えとして主張されていた頃に行われたものである。その当時は、この「文明の衝突」という分類に賛成するのか反対するのかが新聞を賑わしていたし、僕自身も真面目に批判するためには一旦はハンチントンの主張に耳を済ますべきと考え、友人と読書会を徹夜で開いたりもした(笑)。「文明は衝突するのか:問いを問い直す」と題されたセンの講演は、私がまんまと引き込まれてしまった「文明の衝突」論争(?)の前提を問うものであった。
 

文明の衝突という特定のイデオロギーに基づいた世界観それ自体が、世界での物理的な対立や暴力的な事件を煽ることになってはいないか、と問わなくてはなりません。…(中略)…、文明が衝突するという理論に賛成だろうが反対だろうが、この問い方を認めたまま答えようとしてしまうと、世界の人々に対する非常に誤った認識を自動的に支持することになってしまいます。というのも、人々の分類には他にもさまざまな方法があり、文明に基づく分類が他のものよりもアプリオリに上位にあるとか、優先されるとは限らないからです」(p.8)。

 センは、ここから「アイデンティティの複数性」を認めること、そしてその「選択」や「意志決定」における条件づけの問題を、経済学と倫理学を架橋しながら展開していく。「宗教」だけがアイデンティティを最終的に決定できるわけではなく、複数するアイデンティティのどれを選択するのかの権利は「私たち自身」にあるというように。ある審級に「賛成/反対」を示すだけではなく、その審級そのものを「選択」するところから始めないと、問うべき問いが封じ込められてしまうということである。
 

「「文明の衝突」論の最も基本的な弱点は、たった一つの、他を圧倒するとされる分類によって世界の人々を区分してしまう仕組みにあります。つまり、この議論は、私たちが文明は衝突しなくてはいけないのかどうかを問うずっと以前の段階から間違っているのです。「文明は衝突するのか」という問いの形に沿ってしまうと、それにどう答えようとしても、狭く、恣意的で、誤解の多い方法で世界の人々を考えるよう追いやられてしまうのです。そして、この問いは、人を困惑させる力が大きいため、その理論を支持したい人だけでなく、それに反論したい人までが罠にかかり、あらかじめ特定された枠組みの中でしか答えられないように仕向けてしまうのです。…(中略)…。その区分法だけを重要なものとして受け容れてしまうことで、「衝突」の理論に疑問を呈し、反論していた人々でさえ、「文明の衝突」という主張に貢献することになってしまうのです。…(中略)…。一つの区分法だけを信じ込むことは、状況の記述として深刻に間違っているだけでなく、潜在的には、倫理的そして政治的に危険です。人々は、自分たちを様々に認識しているのです」(p.10)。

「より重要な問題は、世界の人々を一つの方法で、個別の文明に切り分けられるのか、ということにあります。これは、個別の文明が衝突するか否か、以前の問題です、このあまりに単純化された分類は、世界の人々の有り様や多様な相互関係について誤った理解を誘導するものでしかありません。この分離法は同時に、特定の区別だけを大げさに見せる効果があり、それ以外の分類法を排除してしまうのです。…(中略)…。別の選択肢がそこにあるのに、その存在を否定しまうことは、状況の記述として間違っているだけでなく、倫理的な怠慢です。というのも、選択の行使に伴う責任まで放棄することになってしまうからです」(p.13)。

 「人類の共通項」と呼ぶべきものがあるとする場合、それを「文明」のような単一的な審級から説明するのか、それとも「文明」だけではないとして審級の多様性を主張するのか。後者の場合、「人類の共通項」を「多様性」と呼ぶので、語義矛盾のように聞こえるところもある。しかし、みんなが同じ基準を前提にして「多様性」を語っているとは限らないということに、私たちは注意しなくてはならないと考える。ただ単純に「多様性」を語るだけでは、それは暗黙の内に「同一の審級による基準を共有している」ということを強化してしまうからだ。「多様性」を積極的に語り続けなくてはならない理由は、「私たちは多様である」ということを語るための前提条件が異なっているかもしれないということを明らかにするためにある。
 
 単純化された賛成/反対の論争軸に巻き込まれることなく、また単純に「多様性」を主張することなく(相対主義の回避?)、しぶとく討議の空間を信じながらその批判を可能とする外部への視座を確保し続けること。センが僕に教えてくれたのは、「すべての議論は語り直されるためにある」という、ある意味では当たり前すぎることだが、これなくして「学問の扉」が開かれることがなかったのも個人的な事実である。
 
 ついでだが、センに「アマルティア」と名づけたのはインドのノーベル文学賞作家・タゴールで、それは「永遠に生きる者」を意味するという。アナン国連事務総長の講演も楽しみだ。
 
※アナン国連事務総長名誉博士称号授与式並びに記念講演会
http://www.adm.u-tokyo.ac.jp/gen/gen3/kouenkai/kouenkai.html
アマルティア・セン「文明は衝突するのか:問いを問い直す」(学内広報に掲載)
http://park.itc.u-tokyo.ac.jp/utweb/gen03/kouhou/1238/1238.pdf

アイデンティティに先行する理性

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