本田由紀『若者と仕事:「学校経由の就職」を超えて』東京大学出版会、2005年

 まずは装丁カバーでお気に入り。若年労働問題は後回しにしようと思いつつも、やはり購入&読了。修士に入学した時は、研究フィールドをクリエイター系の専門学校にしようと思っていたので、その関係から本田さんを知った。僕とは方法論的関心の違いはあるものの、「教育の職業的意義」をめぐる議論とそれとの関係で専門学校の重要性を提案していく点には基本的に同意である。だからこそ5章最後の部分は非常に納得できた。

「戦後日本の企業従業員の中には「自分には学歴はなくても実力はある」という意識が観察され、「実力」は学歴=教養が欠如した人々−−典型的には中卒者−−にとっての拠り所であった。こうした意識が、職務間の分断を取り払い「青天井」の昇進を可能にすることをうたう職能資格制度の導入・普及を支えていたのである。しかしそれは同時に、「潜在能力」の大まかな分類基準としての高卒・大卒間の学歴格差の温存という皮肉な副産物をも伴っており、こうした状況こそが80年代における教育社会学者の「学歴社会」研究の土壌となっていた…(中略)…。このように「実力」が「学歴」の代替物として意識されていた状況下では、企業社会の成員にとって、学歴=「実力」という認識、言い換えれば学校教育を通じて仕事に役立つ「実力」が形成される認識は、とうてい受け入れられないものだったであろう。教育の「職業的意義」を否認し、教育歴に基づいた処遇を批判の対象とすることによって、タテないしヨコの学歴において自らが相対的に「劣位」にあると感じている者−−そこには中卒者だけでなく、ごく一部の「エリート大学」出身者を除く大多数の社会成員が含まれる−−は、不満のはけ口を得ることができたのではなかったか。このような屈折した意識が、日本における教育の主観的な「職業的意識」をきわめて低める方向に動いてきたのではないかと考えられる。(p.175)」

 要するに、実力主義が逆説的にも学歴主義を温存させてしまい、職能をめぐる言説空間は反学問と学問のプロレスによって延命させられていたが、そこには重大な見落としがあるんじゃないの?ということだろう。
 しかし、この認識が本当に何かを見落としていたかどうかとなると、実は微妙なのではないか。本田さんの議論は「教育の職業的意義」ありきで議論が展開されているので、その欠落が実証的に示されるのは手続き上は当たり前の結果である。つまり、僕は本著の分析を非常に興味深くと思うと同時に、その分析の前提としての「「教育の職業的意義」の回復」が今なぜ言われなくてはならないのかが十分に説明されていない気もするのだ。その工夫として、「職業的自律性」(p.166)が企業教育での獲得に偏重しているとの指摘まではわかるのだが、それでは学校がどうすれば「職業的自律性」を高められるようになるのかはまた別に考えるべき大きな問題だとも思う。
 なんというか、社会科学的な手続きになるほど!と思いつつ、その分析を貫く問題意識の理論的な部分をもう少し読んで見たかった。そうでないと、「すべての高校を長期的には何らかの基礎部門に特化した高校へ再編すること」(p.200)は、そのまま「ラディカルな提言」として流されてしまうのではないだろうか。
 結論とは別に面白かったのが、4章のインタビュー。「アルバイト活動の比重が「本業」を凌駕するまでに増大する要因(p.125)」やクリエイターとフリーターの境界線上にある「仕事への移行の継続(p.130)」は、その結果だけでなくこうした要因が何によって成立するのかを僕なら問題にしてみたい。基本的には、本田さんの議論に大きな示唆を受けた。いつか、労働を成立させる社会的な技術や能力(ここが「リテラシー」にあたる)と雇用の問題を考えてみたいとも思う。

若者と仕事―「学校経由の就職」を超えて

若者と仕事―「学校経由の就職」を超えて