「エンタの神様」2004年9月18日

 カンニングが「うんこしてやるっ!」と脱いだ時から毎週見るようになった。波田陽区の「ってゆうじゃない〜」にも慣れてきたし、はなわが唱えば「ああ、今週はここまでか」と思うようになった。それでもこの番組には謎がある。例えば「これは○○という番組だよ」と視聴者に指示する番組としてのフレームがほとんど感じられないこと。番組が番組であることを教えてくれるのは、芸人の背景に立てられた「エンタの神様」という映像だけかもしれない。福沢アナと白石美帆はあたかも司会のように私たちに語りかけているようにみえるのだが、本当のところは会場の司会でしかなくて、番組の司会ではないんじゃないか。番組の中で一番浮いているはこの二人であることに「間違いない!」。
 お笑いブームをテレビで楽しんでいるものの、放送番組としての形が見えてこないことに違和感を感じてしまうことがある。このことはコンテンツとしてのお笑いを次々と前景化する一方で、それを語る言葉(先輩による批評、さらには司会ですらも)を徹底的に背景に追いやってしまっている状態だからこそ感じることかもしれない(番組が芸人のネタだけで構成されているような状況)。会場のお客さんと視聴者こそ芸人を評価すべきであると思わせようとする最近のテレビ番組。ところが実際のところは、その評価は言語化されないランプや玉の数でしか示すことができない。お笑いを語る言葉が不在なのである。お笑いの評価を数量化する事態は、それとして客観性を装っているように思えるが、番組としては評価の可視化以外の何者でもない。私たちはどこかでお笑いを語る言葉を聞いたり喋ったりすることを放棄していないだろうか。コンテンツをそのまま見せる/見ること。それはそれで良い面もあるだろう。しかし、コンテンツを語る言葉を番組として放棄している/されてしまっている点は、現在のお笑いを芸人だけのものに狭めてしまっていないか。
 子供の頃、毎週日曜日の午後3時からテレビ朝日やすしきよしが「ザ・テレビ演芸」にて新人発掘をしていた。審査員は大島渚高信太郎、花井伸夫(もしくは山本益弘)、神津友好、糸井重里の5人で、番組最後にやすしがコメントするのがお約束だった。そのコメントこそ、当時のお笑いブームを支えていたものではないか。あの頃がなつかしいんじゃない。先輩が後輩を、後輩が先輩を語る言葉をもっと放送してくれたら嬉しい。
 アンジャッシュのスポンサーネタを「広告リテラシー」と結びつけてみようと思ったけれども、また今度。
 
※参考
・『お笑いスター誕生!!』の世界を漂う
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/1901/star.html
・「エンタの神様」(ここでも番組としてのフレームがわからない)
http://www.ntv.co.jp/enta/