「新聞の五輪報道考える:朝日新聞紙面審議会 04年度第3回」

 佐藤俊樹のいう「サイクル」は、スポーツを楽しむと日常的行為はテレビ中継に始まり、深夜のスポーツニュースを経て、翌朝の新聞にてその結果を再確認するという「楽しみのサイクル」の最後に新聞がくることを強調したかったのではないにも関わらず、長生志朗(朝日新聞東京本社編集局補佐)はそこを“やっぱり新聞ですよね!”に回収しているように読めてならない。佐藤はそうした「サイクル」の上(話の展開として言っただけ)で、「つまらない記事」や「ありきたりの物語」の居心地の悪さを指摘していると思うのだが。
 野中章弘は「米軍ヘリ墜落事故」の続報が社会面のトップでも「北島の金メダル」によって追いやられてしまい「バランスを欠いている」ことを指摘。「新聞の良さは、読者が紙面を見たとき、見だしや記事の大きさで、その日のニュースの価値をぱっと確認」することであると野中の指摘に無理はないと思うし、それゆえになにが「トップ」にくるのかは、読者の日常生活において何がネタとしてなにが対象化されるのかと考えるのも難しくない。オリンピックの結果報告のようにその日限りの報道と基地問題のように継続的な報道とでは、「社会面」というある意味でなんでもそこで対象化されうる舞台において、読者はそこでの慎重なバランス取りを期待するしかない。“なにが「トップ」であるのか/あるべきか”という記者の紙面作りと読者の読み方の相互関係がどんな再生産をしているのかという試みを、それこそ「NIE」でしてみたらいかがでしょう?